黒の書に秘められた禁断の知識、それがどれほど魅力的なのかを私に問うのは愚かなことだ。過去に突然姿を消したと噂される賢者たちの一体何人があのおぞましい世界を今この時もなお徘徊しているのだろう。異形の神が統べる場所で、己の知識欲の先にあるものなど永遠の隷属に他ならないというのに。
そこから抜け出すことができる者などきっと一人もいなかったに違いない。唯一の例外は私自身だが、それもアルマの力あってこそだ。アルマがそれを望んだからこそ、私はあの暗黒の領界から完全な形でこのタムリエルへと帰還することが叶ったのだから。
しかし……。
『思い上がるな。誰も私から永遠に逃れることなどできない――アルマ、お前も必ずここへ戻ってくるのだ』
アルマと私がアポクリファから離れようとしたその時、呪いのように投げかけられたハルメアス・モラのその言葉。デイドラ公の一人に数えられる者がこうもあっさりと手を離したのは、やはりいずれ必ず手に入ると信じて疑っていないからなのだろうか。
もはや用済みの私のことなど、折に触れ送ってくる手合いの誰かが仕留められれば退屈しのぎになるとでも思っているのだろうが、かつて主として偽りの忠誠を誓った相手の興味は既にアルマへと移っている。
そして、機会さえあれば知識の悪魔は手段を選ばずアルマをあの世界へと誘い込むに違いない……そう、かつての私が正にそうであったように。
「ミラークさん、少し留守にしますがよろしいですか?」
「ああ。だが、どこへ?」
「……すぐ戻ります」
尋ねても曖昧な返事しか返ってこない時にアルマが向かう場所は一つだ。それを知っているからこそ私は深く追求しない。どこか様子を伺うような、申し訳なさそうな顔をしたアルマは一度部屋へ戻った後、家の外ではなく地下へと向かう。その手に、禍々しい意匠を施された黒い本を持って。
『お前も必ずここに戻ってくるのだ』
その言葉が頭の中を駆けめぐる。かつて私がヴァーロックとの戦いに敗れアポクリファへと匿われた時、こんなにも長い間戻ってくることができなくなるなどと少しでも考えたことはあっただろうか。それが私の不覚であったことを否定するつもりなどないにせよ、果たしてアルマは書物の形をした異界への扉を開く時にもう二度と還れなくなる覚悟をしているのだろうか。私と、もう永遠に逢えなくなるかもしれないという不安を感じてくれているのだろうか。
ハルメアス・モラが本気でそうしようと思えばもうどんな手段を講じようとも逃がれられないということを、私はアルマに恐れてほしい。時間など意味を為さないあの空間では正気を保っていられる方が狂っているのだ。あの世界を蠢くシーカーやルーカーといった類も、元は恐らく知識を求めた者の慣れの果てに違いない。初めてそれに気づいた時の心臓が凍り付くようなその恐怖を覚えている限り、私はもう二度とあの領界に足を踏み入れようとは思わない。
アルマは果たして私と同じ道を歩んでしまうのだろうか? 力を求めるドラゴンの性を克服することができずに、多くの者たちがたどった破滅への道を選んでしまうのだろうか……?
物言わぬ石像のように身動き一つせず、薄っすらと透けて見えるアルマの様子を見に降りることなど今日までは一度もなかった。帰ってくるというアルマの言葉を信じて待つことしか私にはできなかったのだ――だが、今日は違う。
これから私がしようとしていることは決して誰からも許されることではない。しかし日を追う毎にアポクリファへと足を踏み入れる回数が増えてきたアルマを前に、私の心は壊れてしまった。何かを信じ続けるということに、私は疲れてしまったのかもしれない。
一歩ずつ踏みしめるように階段を降りた私の前で、アルマは唯一手放さなかった黒の書を読んでいた。他の書には興味がないからと一度中を垣間見るや否やダークエルフの魔術師に渡してしまったというのに、この本に秘められた力だけはどうしても手に入れたかったのだろう。『変化の風』――その書の中に封じられていた秘密が何だったのか、もう私には思い出せない。
私の不安を知っていて、禁断の知識に屈したりはしないと固く誓ってくれたアルマ。そんなアルマをも誘惑する存在など消え失せてしまえばいいとこんなにも強く願ったところで、私の力では目の前にあるこの本を破壊することも叶わない。魅せられた獲物を罠へと嵌める撒き餌がこんなにも近くにあるというのに、それを知りながらもただ見ていることしかできない己の無力を思い知る。
「アルマ……」
手を伸ばせば触れられるほど近くに立ち、その名を呼ぶ私に応えてほしい。そしてもう一度証明してほしい、その居場所は常に私と同じところにあるのだと。
しかし虚空を見つめるアルマの瞳が私に向けられることはなく、この右手に携えた古いダガーが下ろされることももはやない。そして私の狂ってしまった心ももう、決して以前のようには戻らないのだ。
「!」
その時、まるで私の叫びが聞こえたかのようにアルマの輪郭がはっきりとした色を帯び始める。この世界に戻ってくる、いずれまた魔界へと旅立つために。そんなことはもうさせない。アルマの世界はこのニルンだ。私と同じこのタムリエルでアルマは生き、そして……。
「――っ!」
良く研いだ刃は呆気ないほど簡単に細い身体を貫き、胸から背中を貫通して温かい血がこぽりとこの手を濡らす。愛しているからこそ苦痛など与えたくはない。愛しているからこそ、もうこんなことを繰り返させてはいけないのだ。
「ミ、ラ……」
驚きと畏れを含んだ声の最後は赤い血に変わる。『どうして』――だがその目は確かにそう言っていた。アルマの身体を包み始める光は過去に何度も竜を屠った時に見たものと同じく、私に比類なき力を与えてくれるものであるはずだが、こんなにもこの身が引き裂かれそうな思いでそれを目にしたことなどこれまではもちろんなかった。
私は古びたドラゴン・プリーストのダガーを引き抜くと、あふれ出る鮮血の泉にくずおれたアルマの華奢な身体を強く抱きしめる。
「お前をハルメアス・モラには渡さん」
徐々に流れ込んでくるアルマの魂、その深い悲しみと絶望を感じながら私はただ一言そう言った。指を絡ませるようにして握りしめた手はだんだんと骨に変わり、腕の中の身体は軽くなる。竜の魂を持っているからこそ、ドラゴンボーン同士は互いの命を吸い取ることができる……それがこんなにも皮肉に思える日が来るとは。
そして私の全身に信じられないような力が漲ると同時に、この不安定な世界は一人の英雄を永遠に失った。
自分の行いが決して許されざる罪であることなど十分に承知していても、この手で愛する者の命を奪ったという事実に自分の中の何かが軋む。だが私は恐怖に耐えられなかった。いつか見知らぬところでアルマが命を落とし、その魂がアポクリファという檻の中で久遠の囚人と成り果ててしまうことを。私の手の届かぬところに、愛したアルマが奪われてしまうことを。
「……もう一度あの領界に囚われるのはこの私一人だけでいい」
見る影もない亡骸を抱いたまま、私は誰にともなくそう呟く。今、アルマの魂は私のそれと一つになった。これから先に続く死にも劣る日々と引き換えに、私はアルマの全てを得たのだ。つい今しがたまで側にいてくれた温もりを、寄り添い慰めてくれた存在をこの手にかけ、私はアルマの魂を手に入れた。アルマを永遠に失うことで、私はアルマを自分だけのものとすることに成功した。
例え私が再びアポクリファの奴隷となろうとも、誰にもアルマに手出しはさせない。触れさせない。離さない――もう二度と。
「アルマ、私は永遠にお前を愛する」
私の頬を一筋の涙が伝うが、その誓いに優しい微笑みで答えてくれた相手はもうどこにもいない。床に落ちた黒の書の中で、『同胞の洞察』の文字だけがただ淡い紫色の光を放っていた。
