カウンター越しの愛をあなたに

「いい加減にもうやめておけ、アルマ。お前がどう頼もうと今夜はこれ以上酒は出さないぞ。ほら、店じまいだ」

 ソルスセイム、レイヴン・ロック、レッチング・ネッチ――そのバーのカウンターで。スジャンマ、フリンはもちろんマッツェやシェイン、果ては普通のハチミツ酒に至るまで、テーブルの上には私が飲み散らかしたアルコールの器が散乱している。そんな私を見かねたのか、ついにこの店のマスターは無情にも閉店を告げた。

「いいじゃないですか、ここに部屋も取ってるんだし……もう少しくらい飲んだって」

 私は手にしたグラスに残っているスジャンマをあおりながらそう答える。至福の味わい、確かにその言葉に違わずこのお酒は美味しい。でも私がそう感じる理由はただ単に味が秀でているというだけではないのだ。

「ゲルディスさん、スジャンマもう1杯だけ」
「ダメだと言ったろ。水ならいくらでも飲ませてやる」
「そんな」
「嫌なら部屋に戻ってもう寝るんだな」
「……わかりましたよ……って、あれ?」

 渋々立ち上がった私はまたへたりと椅子の上に尻餅をつき、思っていたより酔いが回っていたことに驚きを隠せない。

「おい、いくら何でも飲み過ぎだ。今夜は一体どうしたんだ? お前らしくもない」

 そう言いながらもゲルディスさんはわざわざカウンターの向こうから回り、カウンターに突っ伏していた私に肩を貸して立たせてくれる。でもそれは誰にでも向けられている優しさで、私が求めているそれとは違うんだろう。こんな風に酔っぱらわなければ触れてももらえない関係でしかないのに、これ以上のものを期待するのは愚かなのだろうけれど。

「私だってたまには酔い潰れたい時もあるんですよ」
「それはそうだ。こんな仕事をしてればそんな奴はいくらでも見てきたからな」

 ゲルディスさんはそう言ったけれど、私は心の中で首を振った。今こうして私を支えてくれている本人のことが好きで好きでたまらないのに、少しも振り向いてはもらえないからヤケになって飲むしかないだなんて、そんな人が過去にもいたのだとしたらそれはそれで悲しい。ただ、きっとその人とは一緒にいいお酒が飲めるのは間違いないだろうけれど。

「ほら、お前の部屋だぞ」
「うー」

 腕の力が緩んだままにベッドの上へと倒れ込めば、頭の上からゲルディスさんの呆れ混じりのため息が聞こえた。

 普通の男の人が相手ならさすがに私もこんな無防備な真似はしない。ある意味で誘っているかのような振る舞いは相手にも失礼だろうし、何よりその気になられても私には心に想う人がいるのだ。他でもないその人が相手だからこそこうして少し甘えてみたくもなるというところなのだけれど、きっとゲルディスさんにはよくいる酔っ払い客の1人としてしか認識されてはいないだろう。

「アルマ、本当に大丈夫か?」
「はい……どうもお手数をおかけして」

 他愛のない会話。このままここにいてくださいなんて大胆なことが言えるくらいなら、いつまでもこんなに悩んだりはしない。楽しく話ができるだけでは満足なんかできないくせに、私はそれすらできなくなることを恐れて本当の気持ちを隠し続ける方を選んだ。ゲルディスさんに当たって砕ける勇気もない私は、こんな状況になってもまだ口を噤んだままでいるしかない。

 あなたが誰より好きだから、2人で一緒に夜を過ごしたい。私に触れてほしい。何もわからなくなるほど愛されたい……もしそんな風に言ったらゲルディスさんはどんな顔をするだろう。今まで聞いた中では1番笑えるジョークだと言ってくれるだろうか。それとも……。

「すみません、連れてきていただいてありがとうございました。もう大丈夫で――」
「おっと、お前は謝礼も払わず私を追い出そうって言うのか?」
「……え?」

 予想外の言葉にぱちりと目を開くと、ベッドのすぐ側にゲルディスさんが立っていて。

「何の見返りもなしに面倒見てやるつもりなんてないぞ。だが金を払えとは言わん」
「どう……いう……ことですか……?」
「何もわかってないって顔だな。まあ、信用されてるのが嫌なわけじゃないが」

 レッチング・ネッチのマスターは何とも言えない顔で1度言葉を切ると、腕を組んで私を見下ろしながら少し抑えた声で告げた。

「私がこんな状態のお前に乗じて手を出さないとどうして言い切れる? つまり、金や物じゃなく礼をしてほしいとなれば残りは1つしかないだろうってことだ」

 “さすがに素面じゃ勝てそうもないが、ここまで酔ってれば私にも分があるからな”――とゲルディスさんが続けたけれど、その表情からは本気で言っているのか冗談なのかはわからない。

「いくら顔馴染みだとしても、こんな夜中に男を部屋に入れればどうなるかくらいわからなかったのか?」
「で……も、ゲルディスさん、は、だって」

 ここのマスターで。友人で。それに何より、普通のダンマーなら同族以外の女にはこれっぽっちも興味なんてないはずでは。だから軽蔑されるのが恐くて、私は想いを打ち明けることを諦めていたのに。

 でもそんな心の中が顔に出ていたのか、ぽかんとしたままの私を見てゲルディスさんは小さくため息をつく。

「最初に会った頃、お前は私の好きなタイプの雰囲気をしてると言ったのを覚えてるか? 経営者としては自分の店で気になる女を片っ端から口説くわけにもいかないが、かと言って好みの女のグラスにほんの少し強い酒を注がないほど私も高潔じゃないんだよ」

 “予想以上にお前が酒に強かったのは誤算だったがな”と言葉が続き、私は目を丸くする。そんなこと全然気づかなかった。何でも飲める口というのも時として不便なものだ。

「気心が知れてる仲というだけで満足できればよかったんだが、それでも降って湧いたチャンスに賭けてみたい程度には希望を捨てきれないんでね。アルマ、ここまで言えば私の気持ちくらいさすがにお前もわかるだろう」

 わからないです、だからはっきり言って――もしそう言ったらゲルディスさんは私の欲しかった言葉をくれただろうか? でも私の開いた口からはどんな声も出てくることはなかった。あまりにもたくさんの言葉が胸の中に渦巻いて、何を言えばいいのかわからなかったのかもしれない。これまで長い時間ずっと言えずにいた想いの全てが一気に言葉に変わろうとして、私の喉のあたりでぎゅうぎゅうに詰まってしまっていた気がしたくらいなのだから。

「お前が拒むなら出て行く。だがそうでないなら……」

 何も言わない私を見つめながらゲルディスさんがそう呟き……次の瞬間さっと目を伏せてそのまま踵を返そうとする。私は引き絞られた弓から矢が放たれるように素早く身を起こすと、背を向けかけた相手の手を握りながら涙交じりの声で告げた。

「行かないでください、ゲルディスさん」

 その囁きが届くと同時にゲルディスさんは私を振り向き、今聞こえた言葉を確かめるようにこちらをじっと見つめる。だから私は今度こそ、はっきりと自分の望みを言った。

「お願いします。側にいて」
「……お前の望み通りに」

 お酒とおいしい料理、楽しい会話。レッチング・ネッチで過ごした日々のどれもが大切な思い出だけれど、きっと今ほど幸せで満ち足りた気持ちになったことはなかっただろう。お互いの体温が溶けて混じり合ってしまうほど熱く、愛する人と何も纏わず何度も求め合って果てた後ほどには。

「……んー……」

 翌朝目を覚ました私はまだ若干二日酔いが残ってはいたけれど、昨夜の出来事を夢やお酒の勢いとして片付けるつもりはなかった。忘れようとしても忘れられない。ゲルディスさんは私が頭の中で想像していたよりもずっとキスが上手だったし、そして自分が女に生まれついたことを神々に感謝したくなってしまうほど、私にたくさんの歓びを教えてくれる手腕の持ち主だった。

「お、起きたのか。まだ寝てても構わないぞ、お前も疲れてるだろうからな」

 身支度を整えてホールに顔を出せば既にゲルディスさんは仕事を始めていたけれど、他のお客がまだ起きていないのをいいことに私はいつもと同じカウンターの端に腰を下ろす。

「少しお腹が空いちゃって。何かいただいてもいいものありますか?」
「それならお前にだけ特別な朝食を出してやろう。美味すぎて驚くなよ」

 私もブレトンとして食事にはそれなりにこだわりがある方だとは思う。正直に言うと最初はダンマー料理もあまり好きじゃなかった。でも、今は……。

「うん、やっぱりゲルディスさんの料理はどれもおいしいです!」

 食欲をそそる香りと共に手早く調理された湯気の立つ料理が乗ったお皿。アッシュヤムでもソルトライスでも、この人の手にかかれば何でもおいしく思える。何が原料なのかよくわからなかった肉も、今では一口で種類がわかるようになった。ゲルディスさんの側にいるために覚えなければいけないことはきっとまだまだたくさんあるのだろうけれど、こんな勉強ならいつでも大歓迎だ。

「酒場兼宿屋の主人を恋人にするとこういう特典もあるってことだ」

 私の向かいにやってきたゲルディスさんはカウンターに頬杖をつくと、思わずどきっとするほど色っぽく目を細めながらそう言った。そんな風に見つめられると、今何を食べていたのかさえ全然わからなくなってしまう。惚れた弱みというやつなのかもしれないけれど。

「そう言えば……ゲルディスさんは私のどこを気に入ってくれたんですか?」

 食後のお茶を飲みながらふと頭をよぎった疑問を口にすれば、カウンターの奥で食材の在庫の整理をしていたゲルディスさんはその手を止めずにさらりと言った。

「そうだな。昨夜は言う暇がなかったが、私の作ったスジャンマで濡れたお前の唇はどうにもそそるんだ」
「!」
「どういう味がするのかずっと確かめてみたかった。ここでお前と向かい合って話すたびに思い描いた想像通りだったよ。たまらない、極上品だ」
「……っな、なんてことを……」
「食べてしまいたいという目で見ていてもちっとも反応がなかったからな。正直だめかとも思ったが、お前も同じ気持ちだったようでよかった」

 恥ずかしくて返事なんてできない。まさか、今までこうして普通の会話を交わしていた間にも、この人がそんな目で私を見ていただなんて。でもそれを嬉しいと思わずにはいられないほど、私はゲルディスさんに夢中なのだ。

「お前は? こんなしがないダンマーの男のどこが気に入ったって言うんだ?」

 全然“しがないダンマー男”だなんて思っていなさそうな自信に満ちた顔でゲルディスさんが尋ねる。こんなにおいしいスジャンマを作る人がモテないわけがない、そのくらい私にもわかる。

「……秘密です」
「あ、おい! アルマ、ずるいぞ!」
「知りたかったら――」

 “また今夜私の部屋に来てください”、そう言って私は素早く席を立った。ちょうどホールに出てきたモグルルさんにすれ違いざま怪訝な顔をされたけれど、そんなことなんて気にならないほどその朝の私は幸せでいっぱいだった。