「族長。スル・マトゥール。話がある」
「話?」
「あの娘はまだ眠っている。お前のヤートで話すがよかろう」
自身のヤートから出てくるなり、賢女ニバニは私にそう言った。常日頃から変わらぬ無表情のまま、ニバニは私の前をつかつかと歩き、あたかも自身の家であるかのように族長のヤートへ入る。風雨に晒され色の褪せかけてきた垂れ布をまくり私もその後へ続くと、ヤートの中央にたたずむ賢女はやおら振り返りこちらを見た。
「あの娘が倒れた原因がわかった」
ニバニの言うあの娘とは我がウルシラクの認めしネレヴァリン、英雄の生まれ変わりとして悪魔ダゴス・ウルを打ち倒したアルマのことだ。
レッドマウンテンを覆う灰の嵐がついに止んだその時、賢女も私もあの娘がついに全ての預言を成就させたのだとすぐに気づいた。それから数日の時が経ち、アルマは今日ようやくこの集落にその無事な姿を見せたが、私が歓待の意を表さんとあの娘をこのヤートに招いた時、改めて言葉を交わすよりも先にアルマの身体がふらりと揺らいだ。私は気を失った娘を咄嗟にこの腕で抱き留めると、すぐにニバニの元へと運び込んだのだ。
どんな屈強な戦士でさえもついぞ成し遂げられなかったダゴス・ウルの討伐、例えネレヴァリンといえども無傷でなどいられないことは無論わかっている。想像を絶する戦いの末に深傷を負っていたのかもしれない。賢女はすぐに私を小さなヤートから追い出すと、半刻ほど時間をかけてアルマに手当てを施していたようだ。常ならばものの数分で対処法を見出すことのできるニバニが、こうも慎重になるということはやはり良くない兆しでもあったのだろうか。
「して、その原因とは? 確かにアルマはそう顔色が良かったようには見えなかったが……とはいえネレヴァリンは病になぞかからぬ身であろう」
「病か。無論病ではない」
「ならば早く結論を言え、ニバニ。私の気がそう長くないことはお前とて知っているだろう」
あの娘の身にいかなる障りがあるのかと気を揉む私を知ってか知らずか、相も変わらず表情一つ変えぬまま賢女は私をひたと見据え――そして次の瞬間こう言った。
「あの娘は懐妊しておる」
「……な、に……?」
私は思わず言葉を失い、ただそう呟くだけで精一杯だった。
「何を呆けた顔をしておる? あの娘は……ネレヴァリンは子を孕んでおると言ったのだ。よもや知らぬ存ぜぬとは言うまい。身に覚えがないとは言わせぬぞ、スル・マトゥール」
「……っ!? お前は、何を」
「あの娘がレッドマウンテンに旅立つ前、最後にこの集落に立ち寄った時、お前のヤートで何をしていたか知らぬとでも思っていたのか。ずいぶんと侮られたものだ」
「……!」
ニバニは淡々とそう告げたが、私はとてもまともな返事などできはしなかった。
「安心するがいい、幸い他の者はまだ誰も気づいてはおらぬ。だがそれも時間の問題であろうな。子が育てば腹は膨れるもの」
「……本当に、そうだと言うのか。あの娘が、アルマが子を宿していると」
私は絞り出すような声でそう賢女に問うたが、相手が今しがた言った通り、思い当たることがないというわけではない。むしろ、その時のことははっきりと覚えている。
あの娘がネレヴァリンとしての使命を果たさんと悪魔の根城へ向かう前日、私たちはこのヤートで交わった。夜の闇に紛れて私の元を訪れたアルマと契った。私たちはどちらも確たる言葉を発したわけではなかったが、互いの目が合った瞬間、何を求めているのかは不思議とわかった。引き寄せられるように唇を重ね、先を急ぐようにして肌を露わにし、私はあの娘の純潔を得た。それはまるで夢でも見ているかのような一夜だった。
あの娘が何を考え、私のヤートへやって来たのかはわからない。だがいつの頃からか、私はアルマのことを救世主ではなく一人の女として見ていた。遥か昔からその到来を待ち続けた英雄の生まれ変わり、ネレヴァリンを守護すべき一族の筆頭たる立場でありながら、私はあの娘を密かに欲し、こうして触れることを望んでいたのだ。
ネレヴァリンは呪われし第六の大家に打ち勝つと預言されてはいても、その者が生きて戻るかどうかについて触れられている箇所はない。ダゴス・ウルと相打ちとなり、命果てることがないとは決して誰にも言えなかっただろう。アルマは恐らくそれに気づいていた。だからこそ何も知らぬまま若き身空を散らすことを厭い、交わりの一つも試してみようと私のところへやって来たに違いない。
その生への本能とも思しき情動に、相手が誰であるかということは大した意味を持たぬはずだ。あの娘もまた私のことを想っていたのではないかなどと、その行動を都合良く解釈するつもりもない。ネレヴァリンの預言を成就させる過程で他よりも関わりを持った者、あの娘の私に対する認識など所詮はその程度だ。
だがアルマがこのヤートに姿を見せたあの夜、私は紛れもなく沸き上がる愛しさゆえにその身に触れた。もはや再び相見えること叶わぬかもしれぬあの娘を、心に刻みつけるかのように時間をかけて何度も抱いた。アルマの身体は温かく、私を包み込むように受け入れた。その中で果てる瞬間にあの娘と交わした口づけの甘さを、私が忘れる日などこの先も永遠に来ないだろう。
「だからそうだと言っておろうが。それともお前はあの娘と交わってはおらぬとでも言うつもりか?」
「そうは言っていない」
空が再び白み始める頃、アルマは静かに私の元を去った。あれはもう数週間も前になるだろうか。力ある眷族たちと相対し、ダゴス家の強大な頭領をただ一人打ち負かす間に過ぎ去った時間は、新たな命を芽生えさせるに十分だったということだ。
「ならばどうする。ネレヴァリンの腹の子の父親はお前に相違ないのだろう?」
「心配するな、責任は取る」
無表情のまま話していたニバニは、そこで初めて露骨に不愉快そうな顔をした。
「族長、お前は堅物の父に似て女心のわからぬ奴よな。そんな文句で喜ぶ娘がこの世に存在するとでも思っておるのか?」
賢女は眉をひそめたまま、指を突きつけ鋭く続ける。
「あの娘はネレヴァリンとしての使命を終えた。もはや普通の女としての幸福を求めてもよい身分だ。お前たち二人がどういう経緯で交わるに至ったのかは知らぬが、あの娘の望まぬ契りを力ずくで交わしたとは言うまいな」
「賢女ニバニ、見損なうな」
今度顔をしかめるのは私の番だった。いくら私があの娘を求めていたとしても、己が使命を忘れネレヴァリンを傷つけるような真似ができるはずもない。
だからこそ苦しかった。アルマが死の危険と隣合わせの旅に身を投じなければならぬと知っていながら、私は同行することも叶わずその背を見送り、時には押さねばならぬ立場だ。人知れず傷つき、苦悶するあの娘を抱きしめたいと思ったところで、預言の守り手としての使命は私にそれを許さなかった。
そして全てが果たされたとしてもこの想いが顧みられることはない。たった今ニバニが言った通り、あの娘は一介の女として生きることをようやく許されたばかりなのだ。この地に留まらなければならない理由などもはや一つもない――その身に私の子を孕んでいなかったならば。
「あの娘が何を考え私を相手に選んだのかは知らぬ。だが私がアルマを抱いたのは……私自身がそれを望んだからだ。私はあの娘を想い染めてきた。それ以外のいかなる理由もない」
あの一晩の交わりはアルマの人生を狂わせたのかもしれない。だが恥を恐れずに言うならば、私はこの運命的な采配に感謝していた。全てが終わり、かき消えてもおかしくはないあの娘との絆を、もう一度より一層固く結び直す機会を我が手にできたことを。
「私はウルシラクの長としてネレヴァリンを守護する誓いを立てた。あの娘が預言に記されし者としての役目を終えたと言うならば、私もまた先祖代々引き継いできた重荷から解き放たれたということだ。そうであればこそ、今度は一人の女を守るために生きるという道をも選べよう。ネレヴァリンとその守護者としてではなく、妻たる女とその夫としてな」
「!」
私はただアルマとの間にできた子が欲しいというわけではない。私が求めているものは、あの娘と生きる時間の全てなのだ。私はネレヴァリンを守護する者として生まれ、一族の悲願でもあった任を果たした。さすればただの女に戻ったアルマを、ただの男に戻った私が守りたいと思っても構わぬだろう。ウルシラクの族長たる者が迎える唯一無二の妻として、私が望むのはあの娘だけだ。
「あの娘はアッシュランドの出ではない。我らダンマーの部族でさえも。そんな娘を族長のお前が娶り、何の面倒も起きぬと本気で信じておるのか」
「今更それが何だと言うのだ。剣も振るえぬあの娘を真のネレヴァリンと認めた時から、アルマの出自などもはや問題ではない。あの娘さえ首を縦に振れば、私はすぐにでも婚儀を挙げるつもりだ」
「……なればあの娘は知っておるのか? お前が長きに渡りネレヴァリンを憎からず思っていたことを」
賢女は訝しげな目でこちらを見たが、私はなぜニバニがそんなことを聞くのか見当もつかなかった。
「言葉は所詮言葉に過ぎぬ。私は行動で己の意志を示したつもりだ」
「それがいかんと言っておるのだ」
私の答えを聞くなり賢女は頭を振ってため息をつき、まるで幼い子供に言い聞かせでもするような口調で説教をする。
「あの娘は魔術師ぞ。戦士たるお前とは違い、言葉に意味を持たせる連中だ。であればこそあの娘は族長、お前の確たる言葉なしに婚礼に同意などせぬだろう。大英雄の生まれ変わりとて、今のあの娘はただの女だ。あの娘と添い遂げたいならば、お前一人先走っても叶わぬ」
「ならば一体どうせよと言うのだ」
「簡単なことよ。あの娘が次に目を覚ましたら、お前が欲しいとはっきり告げてやれ。ネレヴァリンをウルシラクに結びつけるのはお前の子ではない。お前の心だ」
本当は伝えるつもりだった。ダゴス・ウルが滅びて後、再びあの娘と会うことが叶ったならば、結果がどうであれ私はこの想いを打ち明けようと決めていたのだ。アルマが気を失っていなかったならば、今頃はその答えを得ていただろう。既に子ができていたとは思わなかったが、もしあの娘が私の妻となりウルシラクに留まるという答えを出したなら、いずれは同じ日を迎えていたであろうことは疑いようがない。
「ああ、そうだ。スル・マトゥール」
「何だ? まだ何か言い足りぬか」
私のヤートを出て行く間際、ニバニ・マエサはつと振り向いてこちらを見た。
「一ついいことを教えてやろう。ネレヴァリンのような娘は誰彼構わず褥を共にはしない。生きては戻れぬかもしれん死地に赴く前ならばなおさらだ。あの娘もまた相手のことを愛しいと思っておらなんだら、誰であれその身に指一本触れさせることなどなかろうて」
「……それは、つまり」
アルマの懐妊を告げられた時と今と、どちらがより動揺したかを答えるのは難しい。ネレヴァリンの導き手としてあの娘を見知った賢女の言葉は、私が期待してはならぬと己が身に戒めた願望を示唆していたからだ。すなわち、アルマもまた私を愛していたがゆえにその純潔を捧げたのだと。
「お前を厭っていたならば、そもそもここに顔を出すこともなかっただろう。そういうことだ、上手くやれ」
ぱさりと戸代わりの布が垂れ落ち、私は独り静寂の中に佇む。あの娘が、アルマが目を覚ましたら、今度こそ私はこの胸に秘め続けてきた想いを告げよう。私たちが互いに望みながらも、大いなる使命の前に打ち明けることを許されなかったそれを、青い空の下で成就させるために。
