議事堂でいつも長々と会議をしている各マスターの代理人の人たちも、目ぼしい議題がない時には数日の間羽を伸ばすことができる。私の代理人をしてくれているエディ君も自由に過ごして構わないのに、彼はテル・ウヴィリスに姿を見せるなり開口一番こう言った。
「師匠、俺に魔術を教えてくれ。やっとまとまった時間ができたんだ」
正直なところエディ君は既にかなりの力をつけていて、もう私が教えることなんてほとんどないのではないかという気もする。けれどこんな風にやって来てくれた弟子を追い返すというのも忍びないので、しばらくの間私の塔の周りで経験を積んでもらうことにしたのだ。
でも……。
「――っくそ、毒は効かねえのか!」
人里離れた荒れ地という場所柄もあり、このあたりには毒を持つサソリの棲み家もある。エディ君は身を守る呪文こそ両手でも足りないくらい覚えているけれど、実は直接的に相手を攻撃する魔法をあまり知らない。だからこそここで練習して磨きをかけてもらおうと思っていたのに、それが通じない相手ばかりでは逆に自信を失わせてしまいそうだ。
「俺は! 頭脳労働派なんだぞ!」
「あ……」
私が手を貸すこともできたけれど、エディ君はそれじゃ修行にならないと言って頑なにそれを拒否した。でも結局は私が贈った銀の杖でサソリを叩き潰してしまったから、魔術の練習になったかどうかは全くもって自信がない。こんな私を師匠に持ってしまったことで、彼が後悔していなければいいのだけれど。
「エディ君、怪我は? 大丈夫ですか?」
「ああ、俺なら何ともない。それはいいんだけどよ……ったく、せっかく新調したってのに」
疾風の異名を持つだけあってエディ君の身のこなしは軽い。それでも灰の嵐の影響を受けて凶暴になったサソリが放つ、しなる鞭のような尾の打撃を全て避けることはさすがにできずに、彼が着ていたお洒落なシャツはところどころが無残に斬り裂かれてしまっていた。
「おまけにこの程度の奴相手にしただけでこんなに汗だくだ。やっぱり議事堂に詰めてるだけじゃいきなり強くなったりはしねえよな」
「……!」
エディ君はそうぼやきながら片腕を上げて額の汗を拭ったのだけれど、その時。私はこの目ではっきりと見てしまったのだ。破れたシャツの裾から覗く、適度に鍛えられて引き締まった腹筋。今この時私の前で短く息を乱し肩で呼吸をしている彼が、紛れもない男性であるということを今更ながら意識せずにはいられない。
「まあ仕方ねえか、これも修行だ。そうだろ、師匠――師匠?」
「え? あ、はい! な、何でしょう!?」
その均整の取れた身体つきに思わず見惚れてしまっていた私へ、エディ君は訝しげに片眉を上げながらからかうような口調で告げる。
「どうしたんだよ、そんな赤い顔して……ひょっとして熱でもあるのか?」
「っ!」
無造作に伸ばされたその人の手が私の額にぴたりと触れる。私とは違う大きな手――ダンマーの、男の人の。
「だ! いじょう、ぶ……です、から。大丈夫」
「そうか? それならいいけどよ……」
「と……とりあえず一度塔に戻りましょうか。そ、その破れた服も着替えないと」
「……ああ、わかった。あんたがそう言うならそうしよう」
私は自分でもわかるほどぎこちない動きでエディ君の手から離れると、テル・ウヴィリスの方を指差しながら必死に話題を変えようとした。
心なしかいつもよりも早い歩調で塔まで戻る道すがら、私は背中にエディ君の怪訝な視線を受け続ける。私自身でさえ不自然すぎておかしいと思っているくらいなのだから、一体どういうことかと彼が私を怪しむのも当然だ。けれど、これ以上エディ君と二人きりでいるのはどうにも落ち着かない。休憩が必要なのは、きっと彼ではなくて私の方だろう。
師匠と弟子という間柄エディ君なんて呼ばせてもらってはいるけれど、エド・ゼーマンという人は人間の寿命に換算しても私よりそれなりに歳上のように思えるし、本来なら私の指導なんて必要ない成熟した男の人のはずだ。もし私がテルヴァンニの魔術師でなければ彼と知り合うこともなかっただろうし、エディ君の側も私のようなよそ者に興味なんてこれっぽっちも抱かなかったに違いない。
それを考えるとなぜか寂しいような、不思議な感覚が胸をよぎる。彼を知ることもなく、言葉を交わすこともないまま時を過ごすということが、何だかとても物足りない人生のように感じてしまったのだ。まるでこの世界を彩る煌めきの一つを、あるべき場所から欠いてしまったかのように。
「なあ、師匠。ミストレス・アルマ」
「は、はい。どうかしましたか?」
塔の周りを警護しているアニムンクリの姿が見え始めた頃、エディ君がふいに私を呼ぶ。慌てて振り向いた私を彼はしばらくじっと見つめていたけれど、しばしの逡巡の末に告げられた言葉は予想もしていなかったものだった。
「俺はあんたが好きだ。弟子としてだけじゃない、男としてあんたを愛してる」
「……え……?」
頭が真っ白になるというのはきっとこういうことを言うのだろう。それはあまりにも唐突で、私は言葉を返せなかった。瞬きをすることさえ忘れて、相手の顔を見つめ返すことしかできなかったのだから。
「俺は初めて会った時からずっとあんたを一人の女として見てた。残念ながらあんたが俺のことをグアーやネッチと同じような目で見てるとわかっててもだ」
「グアーやネッ……そ、そんなことありません!」
「いや、嘘だね」
エディ君はそう言うとにやりと笑い、一歩私の方へ踏み出す。
「だがここに来てどうやらようやく男として認識してもらえたみたいだな。この機会を逃すなんて手はないぜ」
「き……機会って、何の」
「誰よりもあんたの近くにいられるこの立ち位置が嫌だってことじゃないが、安全だと思われすぎてるってのもこれはこれで哀しいもんさ。少なくとも俺はあんたと二人でいてよからぬ気を起こす程度には健全なんだぜ。無害で従順なだけの代理人じゃない。だから――」
その時何が起こったのか、今でも思い出すのは恥ずかしい。彼はその手を伸ばして私の頬に触れると、二つ名通りの素早さで口づけたのだ。
「ミストレス・アルマ、俺の前であんまり油断してると食っちまうぞ。心底惚れてる女を指を咥えて見てるだけなんて無理だろ?」
「なっ……!」
気づいた時にはもう重なった唇は既に離れていて、一瞬の出来事にようやく心臓の鼓動が追いついてくる。混乱して真っ赤な顔のまま何も言えずにいる私に、不埒な弟子のエド・ゼーマンは不敵な笑みを浮かべて言った。
「師匠、一つ予言してやるよ。俺が名の知れた魔術師になる頃、きっとあんたも俺のことを好きになる。俺はあんたを自分のものにする……そのための努力なら惜しまない」
思わずくるりと背を向けた私の後ろから彼の笑い声がする。エディ君が口にした大胆な宣言が現実のものとなるまで、私の心に残されている時間はどうやら少なそうだ。
