Cheat You !

「ありがとうございます、わざわざ部屋まで送っていただいて」
「気にするなよ。師匠に何かあったら困るのは俺も同じだからな」

 スランの町、その唯一の宿屋の中。俺は所用で出向いたミストレス・アルマの付き人としてここに同行した。ボディガード兼秘書みたいなもんだ。テル・ウヴィリスまで帰るには時間が遅いってことで宿に一泊することになったが、悲しいかな俺は同じ部屋じゃない――少なくとも今はまだ。

「エディ君もお疲れさまでした。それでは先に失礼します」
「ああ。また明日の朝な」
「お休みなさい」

 中でお茶でもどうですか、なんて言ってくれはしないかと心のどこかで淡い期待を抱いても、師匠はいつもと同じ笑顔を浮かべて無情にもドアを閉めた。当然そうなるってことは十分すぎるほど理解しているのに、それでも落胆していることを認めないわけにはいかないだろう。

 俺はミストレス・アルマが好きだ。魔術の師匠としてだけじゃなく、一人の女として愛してる。向かい合って食事をしている間に、思わず想いを打ち明けそうになったのはもう一度や二度のことじゃない。だが俺はテルヴァンニでもっと上の位に就いて、ミストレス・アルマが俺を一介の弟子から一人の男として意識してくれるようになるまでは、この手を伸ばさないと決めたんだ。だから焦れったい毎日を過ごしながらも、師匠の周りをうろつく害虫どもを駆除するだけに留めている。

 だがゴスレンの野郎が死んでミストレス・アルマがアークマジスターの肩書きを手に入れてから、篝火に集まるカトンボみたいな連中は日を追うごとに増えていくばかりだ。俺の監視をかい潜り、手段なんて選ばず師匠を手に入れようとしている強かな奴らを、レッドマウンテンの火口からまとめて放り込めたらどんなにいいかと思わずにはいられない。

「――きゃあああ!」
「!?」

 と、そんなことを考えながら俺が自分の部屋に向かって歩き出そうとしたその時。たった今閉まったばかりの師匠の部屋の扉の向こうから悲鳴が聞こえた。

「師匠、どうした!?」

 俺が鍵までぶっ壊す勢いでドアを蹴破ったのと同時に、ミストレス・アルマの放った雷撃が不埒な侵入者の下腹部を寸分違わず直撃する。それをはっきり見てしまった俺の身体の一部が思わず縮こまったのは言うまでもない。

「だ……誰だ、そいつ?」
「わかりません。わ、私が着替えようとしたらいきなり、そこのベッドからこの人が……ぜ、全裸で」
「…………」

 どこの誰とも知れない素っ裸のダンマー男は気を失ったまま床で伸びている。避雷針よろしく電流の一撃を受けたそこが今後使い物になるかは定かじゃないが、どっちにせよテルヴァンニのアークマジスターに夜這いをかけようなんて奴にはお似合いの罰なのは確かだ。いっそ今死んでた方が生き恥を晒し続けなくて済むかもしれないが、幸か不幸か師匠はこんな奴らでも命までは取りはしない。

「どうしてこんなことばかり……私は普通に生活していたいだけなのに」

 念のためにもう一度部屋の中を隅々まで点検していると、師匠が誰ともなしに呟いた涙声が俺の耳に届く。生まれも育ちも生粋のテルヴァンニならまず口にしないだろうそんな言葉に、俺は後ろを振り返ると、ミストレス・アルマに向かって言った。

「仕方ないさ、あんたはアークマジスターだ。例えあんたがダンマーですらないよそ者のブレトン女でも、その肩書きは目の色変えた奴らをいくらでも無尽蔵に引きつける。あんたの関心が少しでも買えれば、そいつらの人生は一変するんだ。ましてや一晩だけでも愛人になんてなれりゃ……その先は言わなくてもわかるだろ?」

 モロウィンドを統べる五大家の一、魔術の第一人者たちを擁するテルヴァンニ。その筆頭にして最強のウィザードともなれば、おこぼれを期待する奴らがなりふり構わず押し寄せてくるのは誰だって想像できる。最初こそ師匠のことをアウトランダーの女だと侮っていた奴らだって、今となってはまさか面と向かって同じ口を叩けるわけもない。まるで別人かと思うほど周りからの扱いが変わるのは、この俺だって十分知ってるからな。

「わ、私はそんなことに興味はありません! 私はただ……」
「ただ?」
「……ただ、放っておいてほしいだけなんです。この肩書きを名乗るのもそんなに長くはないことですし」

 ミストレス・アルマには欲がない。欲しがったところで手に入れられる奴なんて一握りもいないような立場にいても、師匠は自分がその場に望まれていないことを理解している。保守的なモロウィンドの、その古い社会の根幹を成していると言っても過言じゃない場所に、自分が相応しくないということを自分自身で認めている。だから適当な時期が来たら評議会を離れ、一介の魔術師として生きていくつもりだということはミストレス・アルマ自身が俺に言った。富と権力、あるいはそれ以上のものさえいくらでも使える立場にいながら、必要最低限のものにしか手をつけないのもそのためだ。

 だが老獪なゴスレンと違ってつけ込みやすそうな若いよそ者の女である限り、アークマジスターでいる間に何としてでも師匠を手に入れようと目論む奴らは後を絶たない。もし俺の知らないところで、誰かがミストレス・アルマを手篭めにするようなことがあったら……そんなことを考えるだけで、俺の中の残虐な部分が灰の化け物よろしく牙を剥く。そんなことは絶対にさせない。師匠に、ミストレス・アルマの身体に手を触れられる男は俺だけだ。

「――なあ、師匠」
「はい?」
「結婚しないか、俺と」

 俺がソファの上のクッションを一つずつひっくり返しながらそう言うと、背後で師匠が驚きのあまり言葉を失った気配がした。一通りの確認を終えて俺がミストレス・アルマを振り返れば、師匠はびくりと肩を震わせて目を瞬いてから尋ねる。

「な……何で突然……そんな冗談を言ったりするんですか」

 頬の一つも染めてくれればいいものを、俺を凝視しているミストレス・アルマの目には困惑と狼狽しか見えない。まあ、俺も有象無象の奴らと変わらないと蔑んだ目で見られるよりはマシか。

「あんたが寂しい独り者と思われてるからこういうアホな男が湧いてくる。だからよ、もう確固たる相手がいるってはっきりさせちまえばいいんだ。あんたがテルヴァンニのアークマジスターの座にいる間だけでもな」

 すらすらと淀みなく口から出てくる嘘は、何も今この場で考えたものじゃない。忍び寄ってくる男どもを根絶するとまではいかなくても、正式な相手がいると知られている女に近づこうとする奴はずっと減る。だからこそいっそのことそんな噂を俺がひっそりと撒いてみようかと思ったこともあるくらいだが、俺を相手に流されたゴシップを、他ならぬ師匠から完膚なきまでに否定されれば俺はきっともう立ち直れない。

 とは言えミストレス・アルマが思わずその首を縦に振りそうなほど判断力が落ちてる時でもなかったら、俺だってこんなこと言い出しはしなかった――弟子の前で思わず弱音をこぼすくらいに参ってでもいなければ。

「近づいてくるおべっか使いと暗殺者の数はそう変わらないとしてもだ、少しでもまともな頭が残ってる奴ならここまでバカな真似はしない。あんただって知らない男の尻やらナニやらをそうそう見たいってわけじゃないんだろ?」
「あ、当たり前じゃないですか! ……っいえ、わ、私は何も見ていませんけど……!」

 俺のプロポーズには顔色一つ変えずにいた師匠が、火がついたように耳まで真っ赤にしてまくしたてるように答える。それでもすぐに我に返り、気まずそうに咳払いをして俺に向き直ったアークマジスターは、おもしろいほどに目を泳がせながら小さな声で反論した。

「だ……だとしても、別に結婚までしなくても。誰か相手がいればいいなら、例えば恋人がいるという噂を流したって」

 そこで本当の恋人が出てこないあたり、ミストレス・アルマはどうしても嘘がつけない。自分はまだフリーなんだと、そんなにはっきり言ってどうするんだ。

「こういうのは正式だからこそ効果があるんだよ。中途半端にやっても大した意味ないぞ。あんたは知らないだろうがな、男ってのは恋人の顔をそれこそ毎日だって拝みに来るもんだ。影も形も見せない架空の相手をでっち上げたって、すぐにあんたが恥をかくだけだぜ」

 もし俺が本当に師匠の恋人だったら、一日だって離れて過ごしたくない。魔術師ギルドよろしく自腹を切ってポータルを設置してでも、必ずミストレス・アルマに会いに行く。そんな想いを師匠は誰かに抱いたことはあるんだろうか。

 ――残念ながら、多分ない。

「それはそうですけど……だからって、よりにもよってエディ君にそんな不名誉な役を頼むつもりは……」

 不名誉どころか役得すぎると言いたいところをぐっと堪えて、俺はできるだけ真面目な顔を装って師匠に告げた。

「俺のことより自分のことを考えろよ。万が一にもあんたを裏切るような奴が相手じゃ意味がないんだ」
「でも、さすがに結婚なんて――」
「ミストレス・アルマ、そう仰々しく考えるな。いいか、こいつは契約だ。あんたも知っての通り、俺はあんたを絶対に裏切らない。あんたの金も、権力も、何もかも、今の俺の立場以上には求めない。それに」
「それに……?」

 わざとらしく咳払いをしてから、俺はミストレス・アルマに片目をつぶってみせる。

「あんたもそれを望まない限り、あんたのベッドに素っ裸で潜り込んだりもしないと誓う」
「!」

 またしても顔から火が出そうなほど真っ赤になった師匠は口をぱくぱくさせながら、それでも何も言えないままよろめくように後ろに後ずさった。こんな反応をされるとさすがに俺も確信を持たざるを得ない――ミストレス・アルマは、処女だ。

「あんたがアークマジスターを辞める時、この契約も一緒に終わらせりゃいい。そうすりゃあんたは自由になれる。その時に好きな男がいるならそっちと一緒になればいいさ」

 平静を装ったつもりでも、胸の奥が小さく痛むのがわかる。期間限定の結婚、しかも相手は俺を好きなわけじゃない。別れる時には別の男のところに行くかもしれないとわかっていながら、それでも結婚を申し込んでる俺はきっととんでもないマゾだ。そんなことはわかってる。わかってるんだ、そんなことは。だとしても、それでも。

「でも……そんなことをしても、あなたには一つもメリットが……」
「メリットだって?」

 断りはしないが歯切れの悪い師匠に、俺は鼻で笑って畳み掛ける。

「アークマジスターまで昇り詰めたあんたの側で、昼も夜もその一挙一動から学べるだけ学んでいいんだぜ。テルヴァンニの若い魔術師で、こんな恵まれた環境を望まない奴なんかいるか?」

 これは丸っきり嘘ってわけでもない。強大なウィザードの一番近くで、その魔術の真髄をどれだけ眺めても構わないなんて餌をぶら下げられれば、周りを出し抜く欲に満ちた見習いが飛びつかないわけがない。だが俺もテルヴァンニの野心ある魔術師だ。本当の狙いを心の奥に秘めて何食わぬ顔するなんてことは造作もない。

 ミストレス・アルマが評議会を離れる決意を固める時までに、必ずその心を俺が手に入れる。二人きりの時間を過ごす間に、この偽装結婚を真実に変えてみせるんだ。

「どうする? 師匠。俺と一時的な嘘とは言え結婚するか、夜這いを受け続けるか」
「うっ……」

 師匠は気まずそうにその目を逸らしたが、視線の先には運悪くさっきの変態男が転がっている。更に気まずそうな顔をしたミストレス・アルマは再び俺に視線を戻し、がっくりと肩を落とした後で、蚊の鳴くような声でこう言った。

「……考えておきます」
「!」

 いつもならこんな話は笑い飛ばして終わりにする師匠が、初めて返した保留の答え。まるでもう承諾でももらったように、俺の心臓が激しく跳ねる。これはチャンスだ――大魔術師に、そしてミストレス・アルマのたった一人の男になるための。

「ああ。考えといてくれよ」

 俺はそう返事をしながら、顔が緩むのを抑えるのに必死だった。