Confession

 その人が過去も現在も配偶者や恋人と言った存在を持たなかったのは、単に恋愛やそれに類する感情に興味がないからだと思っていた。多くの人がどんなに望んでも手に入らない高位の貴族の肩書きを持ちながら、自分の研究を優先するために権力をあっさり手離せるほどの人ならば、恋なんて浮ついた感情をくだらないものと断じるばかりか、邪魔だとさえ思っていたって何もおかしくはなかったからだ。

 けれどその人は――バラダス・デムネヴァンニというテルヴァンニのマスター・ウィザードは、今この時も一人の女性に想いを寄せているのだと言う。

 私がその人と知り合ってからもうそれなりに時間が経っていたけれど、それを聞いてしまった時は文字通り言葉が出なかった。聞こえた言葉が自分の知っている意味と同じだとは思えなかった。もっとはっきり言ってしまえば、その人も誰かを愛するなんて考えたことはただの一度もなかった。

 テルヴァンニの高位の魔術師たちがどんな人たちなのかを知っていれば、私のこの考えがそう突飛でもないということはわかってもらえると思う。マスター・バラダスはテルヴァンニにおいては飛び抜けた常識人ではあるけれど、世間一般の尺度に照らしてみれば気難しい方であることは間違いないだろうし、愛だの恋だのにうつつを抜かしている姿なんて全く想像できない。

 そして、そうであるからこそ私は自分の気持ちから目を逸らし続けていられたのだ。バラダスさんのことが好きなのかもしれないという、全く先のないこの感情から。

 始めはむしろ苦手だった。その人は強大なウィザードの例に漏れず私を明らかに見下していたし、話をすることさえ無価値と言わんばかりの冷たい態度にはそれなりに傷つきもした。けれど嫌々ながらも折に触れて顔を合わせ言葉を交わしていくうちに、いつしかマスター・バラダスは私の顔と名前を覚えてくれるようになり、頼まれた仕事をこなした時から一人の魔術師として認めてくれていたように思う。

 その頃からだっただろうか。近くまで来る用があればグニシスまで足を伸ばしその人を訪ねてみたり、アルヴス・ドレレンの人気のなさや殺風景なところがむしろ落ち着くような気がしてきたり、極めて普通に接してくれているだけであろうバラダスさんが、他の人たちよりももっとずっと優しいように感じ始めたのは。

 モロウィンドは過酷な土地で、氏素性も知れない私のようなよそ者には誰もが冷淡だ。頼れる縁も記憶もない私を助けてくれる人なんてもちろん誰もいなかったし、優しくしてくれる人はむしろ疑わなければならないほどだった。だからマスター・バラダスと会っている時にどこか居心地がいいのは、ようやく私にも知人と呼べるかもしれない人ができたからなのだと思っていた。

 無意識のうちにそう思い込んでいた。その頃にはもうマスター・アリョンを始め、バラダスさんと同じかそれ以上に親しい人たちがいなかったわけではないのに。

 心強い味方、頼りになる年長者、博識で思慮深い魔術師。私にとってその人を表す言葉は星の数ほどあったけれど、その中のどれ一つとして私の心が完全に納得するものではなかった。そしてそんなことばかり考えてしまう時は、テルヴァンニやブレイズの仕事で毎日忙しくするように努めた。バラダスさんをぴたりと正確に示すその一言にたどり着いてしまうことを、もしかしたら私は心のどこかで恐れていたのかもしれない。

 テルヴァンニでの位を上げ、また熾烈さを増す第六の大家との戦いに身を投じながらも、私は微かな安らぎを求めてグニシスを度々訪れていた。疲弊しきり、どうしてこんなことをしなければならないのだろうと自問自答しているような時でも、塔の階段を登る道すがら、懐かしい薬草と金属の混ざったような匂いを感じた瞬間に、私はなぜか家に帰ってきたような不思議な感傷でいっぱいに満たされるのだ。

 特に何の用事もなく顔を出す私のことをマスター・バラダスは奇妙に感じていただろう。それでも時には食事をご馳走してくれ、夜更けまで話をするような機会もあった。

 それはそんなある夜のことだった。その日は不思議とお酒が進み、バラダスさんも私もいつもよりずっと酔っていたように思う。そうでもなければあんな話はできなかった――あなたはこれまでに誰かを好きになった経験があるのかと尋ねるなんて。

「私に……想う者がいないと言ったことが一度でもあったか?」

 しばらくの沈黙の後、ダンマーの魔術師は一言そう言った。その意味を理解した瞬間、私は頭が真っ白になった。その言葉は、もちろん想う人がいると言っているのに等しかったからだ。

「私とて人並みの感情くらいはある。好いた女の一人や二人いたところで特段おかしくもなかろう」

 追い討ちをかけるようにそう呟いた後、バラダスさんは再びゴブレットを傾けた。今の今まで意識さえしなかった心臓の鼓動が、突然スチーム・センチュリオンの蒸気よりも大きな音で耳に響き始める。

 この人は今何を言ったのだろう。好きな人がいた、あるいはいると、そういう意味のことを言ったのだろうか? テルヴァンニのマスター・バラダスが? この人が、誰かを愛する?

 その時私は初めてバラダスさんのことを強烈に意識した。同じ大家に属する者同士でも、尊敬する年長の魔術師というだけでもなく、ここにいるのは一人の男性なのだということを認識せずにはいられなかった。だからこそ私はこの人に惹かれたのだと、私がこの人を求めてしまうのは愛していたからなのだと、ずっと目を背け続けてきた真実を急に目の前に突きつけられた気分だった。

 この人を好きになればきっと後悔する、そんな考えはそもそも何とも思っていない相手には思い浮かびもしないだろう。こんなことを考え、また自分の想いは恋ではないと自らに言い聞かせているようなこと自体、相手を特別に意識している、それももう引き返せないほど惹かれているという証でしかない。

 私はそれを恐れていた。これは恋なんかじゃない、だからまだ大丈夫だと、偽りの言葉で自分を慰めようとしていた。それでいて会いに来ずにはいられなかった。それが何気ないほんの一言でも、その人の口から出た言葉ならそれは私にとって意味を持った。幼い子供にするように頭をぽんぽんと撫でられただけで、身体の奥が温かくなった。

 ――それは全部、私がバラダスさんを求め愛していたからだったのに。

「どうした、急に黙りこくりおって」
「あ……いえ、その……少し……意外だったもので」

 何とか動揺を取り繕って絞り出すように私が答えると、マスター・バラダスは不服げに眉を顰めてもう一度ゴブレットにフリンを注いだ。

「意外か。私は機械にしか興味のない朴念仁だとでも思っていたのか? 謎の父、ソーサ・シルのような男だと?」

 手にしたゴブレットをテーブルに置いた後、バラダスさんは何かを探るように私の目を見た。その視線に私の心の中まで見透かされてしまいそうな気がして、私は慌てて自分のゴブレットの中身を干すと質問には答えずその人にこう尋ねた。

「でも、そうだとしたらあなたの興味を惹いた相手がどんな方なのか興味があります。もしお伺いしてもよろしければ、ですが……」

 一体どんな人がマスター・バラダスに想いを寄せられているのだろう。もちろんダンマーなのだろうけれど、ひょっとしてアウトランダーだったりするのだろうか。背は高いのか低いのか、魔術師なのか剣士なのか。この人から愛されているというその相手の女性のことを、胸が張り裂けそうなほどに羨ましいと思わずにはいられない。

 あるいはその人はもしかしたらもうこの世に生きてはいなくて、だからバラダスさんはずっと独り身でいたりするのだろうか。他のどんな女性にも心を揺るがされずに生き続けることで、その人への変わらない愛を証明し続けていたりするのだろうか。そうだとしたら私なんて太刀打ちできるわけがない。いずれにせよこの年長の魔術師は、私のことなんて女だとも思ったことはないに違いないけれど。

 私がそんなことを考えているなんて思いもしないだろうマスター・バラダスは、一瞬だけ驚いたように目を見開き、それでいて苦痛を味わったかのように顔を顰め、そしてそのどちらもなかったかのようにいつもと同じ平坦な調子で静かに告げた。

「どうやら私はくだらんことを口走ったようだな。忘れろ、今宵は少し飲みすぎた」
「……はい、わかりました」

 その晩はその後何を話し、どうやって東に帰ってきたのか私ははっきり覚えていない。ただ今でも忘れられないのは、まるで自分の体が自分のものではないかのようにぎこちなくしか動かせなかったこと、目を開けているにもかかわらず何もかもがぼんやりとしか見えなかったことだけだ。

 この恋は叶わないと知っていたから、私はそれを見ないふりをしてきた。ただ単に他の人よりも気が合うから、だから仲良くしているだけなのだと信じようと努力してきた。そうでなければきっと本当の想いは一瞬で結末にたどり着き、私は逃れようのない絶望に向き合わなければならなかったからだ。

 ただこの想いが恋だとして、それがこの先も実ることはなかったとしても、相手が恋愛に何の興味も抱いていないのならそれでもよかった。マスター・バラダスに愛されないのは何も私だけではない、この世のどんな人だって選ばれることはないと安心していられた。その人は私のものではないけれど、誰のものにもならない――例えそれが望みのない恋の中で見つけた一縷の希望にも似た屁理屈だったとしても、そう思ってさえいれば私はまたアルヴス・ドレレンを訪れることができた。

 けれど、本当は違ったのだ。私がバラダスさんの心を掴めないのは、その人が求めている相手ではないからだ。この老魔術師を魅了することができた、この世界にたった一人の女性ではなかったからだ。

 それを認めるのは辛かった。涙をこぼさずにはいられなかった。それを知ってしまってなおグニシスに行こうと思えるほど私は強くない。誰か別の人を見つめ続けているであろうバラダスさんの顔を見るのは辛すぎる。私なんて眼中にないどころか視界にも入っていないということを、わざわざ自分の目でこれ以上確かめる必要がどこにあるだろうか?

 だから私はその日を境にアルヴス・ドレレンに行くのをやめた。どうしてもマスター・バラダスと手紙や本をやり取りしなければならない時は、議事堂にいるエナールさんか弟子に取ったエディ君に頼むことにした。

 私はちょうど自分の塔を構えたところでもあって、やらなければならないこと、やった方がいいことなら幸い山のようにあった。気楽な一介の魔術師から高位のウィザードになったのなら、そうそう自分の塔を離れてあちこち出歩くものではない。

 会わなければ、忘れられる。会わなければこれまで通り、ただの一人の知人として接することだってできるだろう。私がずっとそうしてきたように、敬愛の念だけを抱く相手として。

 けれど……。

「……アルマか……!?」

 今日この日私は、もう一度アルヴス・ドレレンの最上階に立っていた。最後にここを訪れてから一体どれくらいの時間が経ったのだろうか? 私はとうにアークマジスターとなって、ダゴス・ウルを討ち、モロウィンドにも平和がもたらされた。空いている時間の全てを東西の移動に充てていたような頃からすれば、気が遠くなるほどの時が流れたと言ってもきっと誇張ではなかっただろう。

 それほどかつての私はここに来ていた。何もかもが苦しいくらい懐かしかった。その頃から私は変わってしまったのに、塔の中は何一つ変わっていないことが寂しかった。私は忘れられない恋の記憶があまりに鮮明なのが苦しくて、一日一日がのたうち回らんばかりに辛くてたまらなかったけれど、バラダス・デムネヴァンニという人はこの塔に私が顔を出そうと出すまいと、何も変わらない日々を送っていたのだろうとわかってしまうことが悲しかった。

「今日は一体何の――いや、いい。まずは座れ、茶の一杯くらいなら淹れてやる」

 私が口を開こうとするより先に、バラダスさんは珍しくもどこか忙しない口調でそう言った。けれどその目に確かにほんの一瞬、安堵の色が見えた気がするのはなぜなのだろう? どうせ望んだ答えは得られないのだから、期待なんてさせないでほしい。バラダスさんも私を待っていたんじゃないか、会いたいと思っていてくれていたんじゃないかなんて、そんなことは私の都合のいい妄想にしかすぎないのだから。

 アルヴス・ドレレンを訪れなくなってからしばらくの間、他人を介したやり取りがなかったわけではない。けれどその頻度はだんだんと減っていって、もう何ヶ月もの間私はその人からのあらゆる連絡を受け取ってはいなかった。人の心というのは実に不思議なもので、あれだけ勝手にショックを受けてもう忘れたいと思っていたにもかかわらず、それでも私はきっとこの人からの便りを待っていたのだと思う。

 テルヴァンニの領地から遠く離れた西の、寂れた町の片隅に住んでいる魔術師の話なんて、自分から知ろうとしなければ決して耳に入ってくることもない。逆に言えば、私が知ろうとすればそれを手に入れる方法はいくつもあっただろう。それでも羽ペンを手に取っては戻し、取り止めのない文を数行書いては羊皮紙を丸めて捨てる生活を送りながら、私はもうこんなくだらない行為を繰り返すべきではないとそう強く思った。

 私が今日ここに来たのは、全てを終わらせるためだった。その人が誰かに想いを寄せているという事実は、致命傷にはなれど息の根を止めるまでには至らなかった。私はただ死を待つばかりと言って差し支えないだろう恋心を葬り去るために、マスター・バラダスに想いを打ち明けきっぱりと拒絶してもらうつもりでいた。他でもない本人の手で完膚なきまでに引き裂いてもらえたなら、いつまでもぐずぐずと煮え切らない時間を過ごすこともなくなるだろう。

 それでもその人の背中に向かって告白する気にはさすがになれず、私はバラダスさんが戻ってきて向かいに座るまで何も言葉を発さなかった。湯気の立つカップが目の前に置かれ、その人がゆっくりと腰を下ろす。これ以上黙っていることもできない。

 けれど相手の顔が見られず俯いたままどう話を切り出そうかと逡巡していた時、ダンマーの魔術師は誰にともなく呟くかのようにこう言った。

「……もうお前はここには姿を見せるまいと思っていた」

 その声は聞き取れなくてもおかしくはないほどに小さく、人知れず吐かれたため息のように静かで、そしてひどく切なかった。聞こえないふりをしたままでいても不自然ではなかったけれど、私は無意識のうちに視線を上げ、バラダスさんを見つめていた。

 その人がなぜこんなにも打ち拉がれたような顔で私を見ているのか、その理由が知りたかった。どんなに間が空いた時でも、今まで一度もこんなことを口にしたことがなかったこの魔術師が、どうして今日に限って私にその言葉を告げようと思ったのかを知りたかった。

 それは危険な賭けだった。もしバラダスさんの答えが私の望んだものではなかったとしたら、今度こそ私はもう二度とこの塔に足を踏み入れることはできないだろう。私はあまりにもこの人を深く愛してしまった。その想いが完全に断たれてしまったなら、再び立ち上がり向き合う気力なんて永遠に湧いては来ない。

 そうなることを望んでアルヴス・ドレレンに来たはずだったのに、いつしか私は真逆の結果を欲して止まなくなってしまっていた。バラダスさんに一目でも会ってしまえばこんなことになるだろうと思わなかったわけではない。けれどこんなにも苦しんだ後なら、あっさりと膝を屈することはないだろうとどこかで自分を信じてもいた。

 私がなぜここに来たのかも、来なかったのかもわからない人に会ったところで、燻り消えかけていた燃え差しがもう一度燃え上がることなんてあり得ない――そう信じられたからこそここに来られたのだ。今はまだ簡単に揺らいでしまうと自分でわかっていた頃には、この場所に来るべきではないのは火を見るよりも明らかだった。けれどその人のたった一言で決意を粉々にさせられてしまうなんて、自分がそれほど弱いとは思わなかったし、またそんな風に思いたくもなかった。

 それでも私が今どんな顔でマスター・バラダスを見つめているのか、鏡なんて見なくてもなぜか手に取るようにわかっている。傷つき、疲れ果て、苦しみ、それでも必死に相手を求めずにはいられない。決して手に入らないとわかっていても、それでも手を伸ばさずにはいられない。

 なぜなら私が見ているその人もまた、全く同じ目で私を見つめていたからだ。

「私は歳を取りすぎた。もはや自らお前の元へ行くことは叶わん」

 掠れた声が言葉を紡ぎ、止まっていた時間が動き出す。バラダスさんが、私のところに? 聞こえた言葉の意味を客観的に判断しようとしたところで、私の頭は希望的観測を大いに含んだ答えばかり返してくる。

 私が心の中でずっと望んでいたことと同じ意味ではないのなら、優しい言葉なんてかけてほしくはないのだ。期待すれば期待するほど、そうでなかった時の落胆は激しい。絶望の淵に叩き落とすなら、せめて持ち上げずに背を押してほしいのに。

 けれど相手はどこか苦しげな表情で、絞り出すような声でこう続けた。

「私にできることはただ、ここでお前の訪れを待つことだけだ。いつの日かお前が何処かで死に、二度と戻って来ることはなくとも、私はこの塔でお前を待ち続け、そのまま朽ちていくことだろう」

 バラダスさんが私を待ち続ける? どうして? 一体何のために? 私はきっとそんなことはできない。誰に対してもできはしないに違いない。もしそんなことができるとすれば、それは唯一目の前にいる人のためだけだ。なぜなら私はマスター・バラダスのことを、この世界の誰よりも愛していたから。

 でも――。

「どうして……あなたは、そんなことを」
「お前は何故だと思う」

 痛むほどに鼓動を打つ心臓の音を聞きながら、私は何とか口を開いた。それでもすぐに質問を返されて言葉に詰まってしまった私を眺め、バラダスさんは自嘲気味な笑みを浮かべた後、何もかもを諦めたような穏やかにさえ見える顔で私に言った。

「もし私がお前を愛しているからだと言ったなら、お前はそれに何と答える?」
「……!」
「どうしようもなく愛している、気も狂わんばかりだからだと打ち明けたなら、お前は私に一体どう答えるのだ」

 静かで落ち着いたその人の声は、なぜか自暴自棄な叫びにも似ていた。抱きしめてくれないのなら、突き離してほしい。望む答えをくれないのなら、はっきりと背を向けてほしい。あらゆる期待や希望の芽を摘み、二度と夢なんて見ないようにしてほしいと、私が最後にこの塔を背にした時からずっと思っていたのと同じように。

 ああ――なら、そうなのだろうか? 私の思い違いではなく?

「その問いにお答えする前に、私からも一つ質問があります」
「質問?」
「はい。私がなぜ今日までここに来なかったのか、その理由があなたにはおわかりですか?」

 今度投げかけられた質問に閉口するのは相手の番だった。バラダスさんはほんの僅か訝しげに眉を顰め、無言のまま私に視線でその問いの答えを促す。私は合わせたままの視線を一度短く外すと、覚悟を決めて再びマスター・バラダスを見つめた。

「私はあなたに会いたくなかったんです」
「……っ!」

 私がそう言った瞬間、珍しくもその人は動揺を露わにした。恐らく本人はそれを抑えつけようとしていたのだとは思うけれど、隠しようもない困惑と悲しみが赤い瞳に一瞬滲んで消えた。けれど私の話はまだ終わっていない。

「こうしてあなたに、バラダスさんに会って、あなたが私と同じ気持ちで見つめてくれることは決してないんだと確かめたくありませんでした。あなたはいつも他の誰かを見ているんだと、それを思い知らされるのが恐くて、だから――」

 相手はいつしか音もなく立ち上がり、信じられないものを見るような目で瞬きもせずに私を見つめている。だから私は涙がこぼれ落ちるのも構わず、ずっと欲しかった言葉をその人に乞う。

「何も恐れることなんてなかったと、馬鹿な小娘だと、そう言ってください。私が不安に思っていたことは全部ただの勘違いだったんだと、あなたが……あなたが見つめていたのは、ずっと私だけだったんだと言ってください……!」

 けれどバラダスさんがその言葉を口にしてくれることはなかった。なぜならその人は伸ばした手で私の頬を伝う涙を拭うと、そのまま私を引き寄せて目を閉じ唇を重ねたからだ。ただ触れ合わせるだけの口づけを、何度も、私を抱きしめながら。

「……お前がここへ来なくなったのは、私をおぞましく感じたからなのだと思っていた」

 優しく長い口づけを終えた後、老魔術師は囁くようにそう言った。その言葉尻は微かに震えていて、私は胸が締め付けられる。

「お前が最後にここを訪れたあの夜、口を滑らせた私の言葉を聞いて――私をそんな目で見たことなど全くなかったのだろうお前が、気味の悪さを覚えたからに違いないと」
「そんな……こと……」

 バラダスさんのことを本当に何とも思っていなかったのなら、私は恐らくあの返事をからかうだけで終わらせていただろう。ショックを受けてしまったのは、全く逆だったからだ。私はこの人のことが好きなのに、この人も誰かを好きだと言っているのに、その誰かが私ではないということがどうしようもなく耐え難かったからだ。

「私は己の言葉を悔いた。あの時まで薄氷を踏むように気を張りながらお前と接していたのに、あの瞬間私の心が緩んだ。決してお前には言うまいと固く自らに禁じていたことを口に出そうとした。あの時お前はこう問うたな、私が好意を抱いた相手というものに興味があると」
「え……ええ」
「それはお前だ、アルマ」

 その言葉ははっきりと、何の迷いもなく発せられた。それは長きに渡る封印を解く呪文の最後の一言のように、目に見えない力の込められた、何かを確実に変える言葉だった。

「お前があの時そう問わねば、私は自らそれを告げていたかもしれん。私はあまりにも満ち足りて、それ以上抑えていることができなかった。お前の問いで目が覚めた私は危ういところで口を噤みはしたが、全ては遅すぎた。以来お前は戻って来ることはなかった……」

 悲嘆の滲むその声に、最後に会った時から過ぎ去った日々を思い出す。楽しかったはずのそれまでの思い出さえ、バラダスさんはその頃もずっと別の誰かを想っていたのだと考えると苦しくなった。

「次にお前がいつ来るのかと、私は常々それを気にかけていた。だがある時唐突に気づいたのだ、お前はもはやここに来るつもりなどないのだろうと。私は愕然とした。そして最後にお前が我が元に来た時に己が何をしでかしたのかを鑑みれば、これ以上の愚行を重ねる必要もあるまいと……そう思った」

 文のやり取りが途絶えた時のことを指しているということは、もちろん言われるまでもなく私にもすぐにわかった。最後にこの塔を出た日以来私は自分から手紙を書かなかった。受け取った文には返事をしても、決して自分から交流を求めることはなかった。

 だからバラダスさんが私に連絡を取ることを止めてしまったら、私たちの間にあった関係が消えてしまうのはひどく簡単だった。いつかき消えてしまったのかさえもわからないほど、それはあっさりと軽く失われてしまったのだ。

「それでいて私はお前からの文を焼き捨てることも叶わず、ただお前が我が塔に訪れた時のことばかりを思い出していた。そしてよもや足音が聞こえはせんかと階段に目を向けてみたところで、お前が現れるはずもないことに独り虚しく落胆した」

 私を抱き寄せたまま続けられるその人の独白に、いつしか再び私の頬を音もなく涙が伝っていく。私が苦しんでいる間、相手も同じように感じていたということが、信じられない気持ちがありながらも嘘だとはどうしても思えなかった。

「そもそもお前は若い。一時の気紛れで私の元に足を運んできたことがあるだけで、どこぞの男と所帯を持てば私のことなど忘れ去ってしまうだろう。だがその道理を頭では理解しておれど、私は望まずにはいられなかった。私がこの手で触れることが叶わぬのなら、この世の誰もお前を手に入れることなど不可能であれば良いとな」
「……!」
「実に愚かな考えだ。あまりにも愚かで話にもならん。己がそんなことを一瞬でも考えたことを私は痛烈に恥じたが、その考えは私の意に沿った。現実にはあり得ぬ夢想の慰めとなった。それでいてお前が二度と私の前には現れんだろうということが、どうしようもなく耐え難かった……」

 私はその言葉が終わるのも待たず、マスター・バラダスの背に回した腕に力を込める。マンの一生なんて、この人のように何百年も生きるマーにとってはほんの短い時間にすぎない。それなのに一瞬で過ぎ去ってしまうだろうそんな一日一日を、もしかしたら普通の人間が感じているよりも長く思いながら、バラダスさんは私の訪れをずっと待ち侘びてくれていたのだ。

 誰よりも愛している人が、私を想い、そのために苦しみ、それでも忘れることさえできずにこうしてずっと待っていてくれただなんて、こんな時に何を言えばいいのか私には一つも思い浮かばない。ただ私も同じだったのだと、愛しているからこそ苦しくてたまらなかったのだと、言葉で伝える代わりに私たちはお互いの背を強く抱き合う。

「……アルマ……」

 吐息に乗せて囁かれる私の名は、初めて聞く魔法の言葉のようにどこかこそばゆい。それでいて心の奥底からあふれ出してくる温かい何かは身体中を巡り、私はこの地に降り立ってから初めて自分が完全に満たされた感覚を味わっていた。

「バラダスさん、私……あなたが好きです。愛しています。愛していました、ずっと……ずっと前から」

 自分から重ねた唇を離し、私は秘密を打ち明けるように囁く。お互いの吐息が触れ合ってしまうほど近くで、私たちはただじっと見つめ合う。その人の瞳に映る私はなんて幸せそうな顔をしているのだろう。涙は止め処なくあふれ続けているのに、こんなにも晴れやかな気持ちでいられるだなんて。

「私はそう感情の振れ幅が大きいというわけではない。だがアルマ、お前といる時だけは……」

 私の首筋にそっと唇で触れた後、バラダスさんは囁くように告げる。

「お前は私の心を乱す。かき乱し、荒らし回る。お前が側にいるだけで私は少しも気の休まる時がない」
「……っ」
「だが私はそれでもお前を求めて止まんのだ。気が触れているとしか思えんほどに」

 私は何度か目を瞬き、そしてその熱烈な愛の告白とも言える言葉に思わず笑みを浮かべた。私はその人といると不思議なほどに落ち着けてしまったのだけれど、まさか相手は真逆だったなんて。そんなこと以前は思いつきもしなかった。もしその頃の私がもっと注意深くこの老魔術師を観察していたなら、こんな風にすれ違うこともあるいはなかったのだろうか?

 けれど自分にそんなことができたとは逆立ちしたって思えない。恋心を自覚したくなかったあまりに目を背け続けていたのだから、どんな明らかな証拠があったとしても私がそれを見ることなんてなかっただろう。

 それでも、もしマスター・バラダスが私に好意を持ってくれていると気づくことができていたなら。それが例え相手を愛していると自分で理解できるよりも前だったとしても、私がその想いに背を向けることだけは決してあり得ない。なぜなら私はきっと――バラダスさんが私を好きだと思ってくれるよりも前から、その人のことをずっと特別な存在として見ていたに違いないのだから。

「バラダスさん」
「どうした」
「もう少し時間が経って、私の弟子が塔を持てる立場になったら……」

 テル・ウヴィリスを譲ってここで一緒に暮らしてもいいでしょうか、と。勇気を出してそう尋ねた私に、老魔術師は眩しそうに目を細めて笑った。

「物好きな娘よ。だがそれがアークマジスターの願いならば、誰一人として口は挟むまい。お前は既に私の上に立った。望むなら命じろ、お前に従うは満更でもない」

 皮肉げな言葉とは裏腹の温かい声に、私はもう一度涙を流さずにはいられない。これからは一緒にいていいのだと、これからも一緒にいられるのだと、相手もそれを望んでくれているのだと、こんな風に知ることができる日が来るだなんて。

「他の者が今の私を目にしたならさぞや驚くだろう。私自身もまだ信じられんほどだ、この私が……このバラダス・デムネヴァンニが、お前のように小生意気な娘に振り回されてばかりなのだからな」

 そんな風に言いながらも、そっと髪を撫でてくれるバラダスさんの手はとても優しい。私は望み続けた願いが叶った幸福を噛みしめながら、愛する人の腕に抱かれてもう一度口づけを交わした。