それは常と何ら変わらぬある夜のこと。私は数日来材料を揃えていた薬の調合に取り掛かり、秤に乗せた素材を一つずつ乳鉢で擦っているところだった。オートマトンが一定の間隔で機械音をさせている以外に、私以外の者が立てる音など何一つとてありはしない。
――ところが。
「バラダスさん!」
「!?」
静寂に包まれた我が塔に突如叫び声にも似た大声が響き渡り、私は思わず手に取っていたスケイスクローを握り潰してしまった。
「なっ……アルマ!? お前は、こんな夜更けにここで一体何を……!」
すかさず振り向いた私の目に映ったのは、しばらく前から私の元を折に触れて訪れるようになった風変わりなブレトン娘だ。私と同じくテルヴァンニにその籍を置き、今はアリョンの若造の弟子として頭角を表しつつある。
大家の若者共の常として、この娘も以前私の小間使いの真似事をしたこともあった。そしてその時以来私はこの娘が階下の部屋で休むことを許し、私の邪魔をせぬ限りアルヴス・ドレレンへの自由な出入りを許可したのだった。
しかしアルマがこんな真夜中に何の前触れもなくこの場所を訪れたことなどない。それも階段を登ってくるでもなく、神秘魔術を用いて突発的に姿を見せるようなことは。
「……おわかりになりませんか?」
「!」
昼間と比べれば多少なりとも灯りの落ちた部屋の中でも、ブレトン娘が触れそうな距離ほどに近づけば嫌でも気付かざるを得ない。この娘は酔っている――それも一杯や二杯の結果ではなかろう。
「酒に飲まれたか、愚かな小娘よ。仕方ない、今薬を調合してや……っ!?」
だが踵を返した私の言葉は、最後まで続けられることはなかった。アルマが背を向けた私に抱きつくように、両の腕でしっかりとしがみついてきたからだ。
「な、にを、している? 馬鹿な真似は――」
「馬鹿な真似なんかじゃありません!」
その腕に一際力を込めつつ、ブレトン娘は私に華奢な身を寄せる。触れられている場所から生じる、奇妙なほどの熱と焦燥感。こんな夜更けに男の住まいに若い娘が訪れるものではない。そう、私とて男なのだ。いかに老いた身とは言えど、その気になればこんな若い娘一人などどうにでもできる。
何より私はこの娘のことを、年甲斐もなく愛しいと思っていた。私の記憶にある限り口にも態度にも出したことなどないが、私は確かにこのブレトン娘に心を惹かれていたのだ。
そして……。
「私はこうしたいと思ってここに来たんです。そうでなければこんな時間にお邪魔したりしません。私なんてあなたから見れば幼い子供に過ぎないかもしれませんが、私だって女なんです。自分が何をしているのかくらい十分に理解しています」
「……!」
密かに想いを寄せていた娘の口から出た、俄かには信じがたいその言葉。だがその真偽を問い正すよりも先に、アルマの手が微かに震え始める。
「あなたにははっきり言わないと、私の気持ちなんて伝わらないということはわかっていました。何度ここに足を運んでも、あなたは私をそういう風に見てはくれませんでしたから。だから……っ」
震える細い腕がすがりつくように私の身体を抱きしめ、私は振り向くことすら叶わない。しかしだんだんとその声に嗚咽が混じり始めているように思えるのは、全ての因子から鑑みるに私の思い違いというわけではないのだろう。
「だから私は今夜ここに来ました。たくさんお酒を飲んだのも、そうでもないとあなたに打ち明ける勇気が挫けてしまいそうだったからです。でもこれ以上今までと同じ関係ではいたくない。私は……私は、あなたが」
その先に続くであろう言葉を、私は恐らく最初から知っていた。だがそれを聞くのを恐れていたのか、それとも長らく待ち望んでいたのか、そのどちらだったのかを問われたところで正確な答えなどわかるはずもなかった。
「あなたのことが好きなんです。抱いてください、バラダスさん……!」
私はしばし無言のままその告白の意味を反芻していた。抱擁のみを求めているのなら、こんな言い回しをするはずもないだろう。しからばアルマの望みはただ一つ、私と閨を共にしたいという直接的な誘惑に他ならない。
私は思わず我が目を閉じ、誰にともなく深いため息をついた。この娘が私に寄せる好意は信頼であると長らく思い込もうとしていた。頼る者もなく記憶も持たずにこの地に降り立った娘の、自ら道を切り拓いていく前の一時の心の拠り所に過ぎないのだと。
私は己にずっとそう言い聞かせ続けてきた。さもなくばいつかそう遠からぬ日に、私はアルマを男として求めてしまうであろうことはわかりきっていたからだ。
「……全く愚かな小娘よ。呆れ果ててかける言葉も見つからんわ」
「…………」
ブレトンの若い女など、私にとっては年端もいかぬ小娘でしかない。この機に乗じたところで、この幻が長く続く保証もないのだ。アルマのことを思うのならば、この腕を振り切る選択肢しかなかった。声を立てずに泣いているであろう娘を冷たく突き放し、もう二度と顔を合わせることもなく生きていく道を選ぶしか。
それが最善だということ程度は理解している。そんなことは今日この日までもう幾度も数えきれぬほど考えた。もしいつかこんな時が来ようとも、己が身の振り方を間違えるつもりなど決してなかった。だからこそ私は己が本心に口を噤んでこられたのだ。
しかし――。
「なぜお前は酒など飲んだのだ。これではお前が正気かどうかを確かめる術もないではないか」
「……え……?」
私は未だ震えたままの娘の手に己がそれを重ね、我が身を抱くそれをゆっくりと外すと手を離さぬままアルマへと向き直った。想像通りに白い頬を涙で濡らしている娘は、状況が理解できぬと言わんばかりの顔で私を見つめている。
その様を眺めていると心が揺らぐ。我が長き生の中で一度たりとも覚えたことのない感情がどこからかあふれてくる。
「お前ははしたなくも抱いてくれなどと言ったが、私は酔った女など抱く気はない。もしお前に本当にその気があるのなら――」
そして娘の濡れた頬をこの手で拭い、一瞬の沈黙を共有した後、私は生涯告げるつもりのなかった言葉をアルマへと口にしていた。
「お前が素面に戻ってもまだ同じ世迷い言をのたまえるのなら、その時は私も覚悟を決めて血迷った小娘の相手をしてやろう」
「……!」
柔らかな娘の頬に当てられたままの私の手を再び涙が濡らし、私がいくら拭おうともそこが乾き始める様子も見えない。嗚咽の合間にアルマの唇から紡ぎ出される私の名は、不可思議な感傷に満ちて老いた胸を切なくも締め付ける。
それがこうも酒の匂いの充満する中ではなかったのなら、私とてここで踏み留まれたかどうかは実に怪しいところではあったが。
「アルマ、今宵はもう帰れ。術を唱えることもできんと言うなら、下の階で横になり一晩頭を冷やしてくるがいい」
「……はい」
今なお酔いの回った潤んだ目をしつつも娘は素直に頷く。思わず喉が鳴りそうなところを堪えて、私はアルマが階段を降りていく姿を見送っていた。
この場に据えられた我が寝台にあの娘を押し倒すことなど容易い。それでもブレトン娘の酩酊を好機と捉えて事を成したならば、私はこの先もずっとアルマの本意を疑いながら生きていくことになるだろう。つまり、我が身に課した枷を解くのならあの娘からの揺るがぬ証が欲しいのだ。
そんなことをこの私が気にする日が来るなどと考えたことはなかった。私とてテルヴァンニの魔術師の一人であれば、欲すれば奪えばよいという考えに今更異を唱えるつもりもない。
だが、あの娘だけは。アルマのことに関してだけは、私はいかなる不安な要素をも排除したいと望むのだ。一度たりとも読み違えることなく、あの娘の本心を知りたいと。
「さて、あの娘は一体どうするか……」
果たしてアルマは夜が明け目覚めた時に何を思うのだろうか。あまりにも深く酔っていたが故に、何もかもを忘れ去ってしまっているだろうか。己がしでかした愚行を後悔し、そのまま塔を離れ二度と戻って来ることはないだろうか。
それならそれで諦めもつく。しかしあの娘がもう一度この場に姿を現し、再び同じ言葉を告げることがあったなら、私は――。
「お、おはようございます」
然して朝日が登った頃、多少目元に朱を残したアルマは私の元に戻ってきた。それは意外でもあり、また同時にどこか想像通りでもあった。
「昨日はすみませんでした。突然夜中にお邪魔して、そして……っその、あんな……ことを言ったりして」
酒に酔っているのとは違う羞恥心からその頬を赤く染めながら、アルマは昨夜の記憶がなくなったわけではないことをしどろもどろに話し始める。
「信じていただけないかもしれませんが、あんなことをするつもりは全然なかったんです。ただ勇気を出すならお酒を飲むのが一番だという話を聞いて、それでちょっと飲み過ぎてしまって」
「なるほど、つまりお前は――」
ただ黙って聞いている私の前で、ブレトン娘は後悔とも反省ともつかぬ弁を並べ立てる。しかし忘れてくれとでも言いたいのかと私が問い質そうとした時、俯いていたアルマは意を決したようにその顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめて言った。
「……っでも、言ったことは全て本当のことです!」
「!」
我知らず言葉を失った私の様子に焦りでも抱いたのか、ブレトン娘はその目に涙を浮かべながら必死に続ける。
「バラダスさんが好きなんです。ずっとお慕いしていました、一人の男性としてのあなたを。だから……っ」
そこで一度我にでも返ったのか、アルマは片手で口元を押さえながら困ったように私から視線を外した。そしてほんの数秒の逡巡を経た後、今しがたよりも僅かに頬の赤みを強めた娘は呟く。
「あの……昨夜おっしゃったことは本当ですか? もし私が……」
「お前が酔いの覚めた後でも同じことを言えたら抱いてやると言ったことか」
「っ!」
潤んだ瞳を恥ずかしさに見開き、娘はびくりと肩を震わせる。しかし狼狽している様子を見せながらも、アルマは決して首を横に振ろうとはしなかった。
「はい、そうです」
「…………」
こんな返事をされる可能性を排除していたというわけではない。だがいざこんな状況になってみれば、一体どう答えたものかと頭を悩ませずにはいられない。
据えられた膳に手をつけず、女に恥をかかせて塔から追い出すこともできないわけではない。しかしそんなことをしたところで一体何がどう変わると言うのだ? アルマも私もそんな結末を望んでいるわけではないのなら、望みのままにこの手を伸ばすことをなぜ躊躇することがあろうか?
「どうしようもなく物好きな娘よ。何を好き好んで私のような相手を選ぶ? お前ならばわざわざ私など選ばずともいくらでも候補はいるだろうに」
「あなたでなければだめなんです」
あまりにも強い誘惑に対し距離を取ろうと試みたところで、私の心中を知ってか知らずかアルマは簡単にそれを飛び越えてくる。攻めるべきは今だということを、恐らくこの娘もまた頭のどこかで理解しているのだろう。
「あなたは……バラダスさんは他の誰とも違うんです。比べることなんてとてもできません。あなたでなければ他の誰とも、私は……こんなことなんて」
大胆な振る舞いをしてみせても、所詮はただの小娘に過ぎん。駆け引きをするような余裕もなく、その価値すらわからぬまま真実を私に告げることしか叶わない。その言葉を私がどれほど欲していたか、夢にも思わぬどころか欠片ほども知りはしないだろう娘は。
「……そこまで言うのならば試してみるか」
「えっ? ――ん!」
それはある種の賭けだった。私はアルマの不意を突くようにその腰を引き寄せると、有無を言わせず唇を重ねたのだ。触れ合わせ、軽く食む。それを幾度か繰り返しても嫌がる素振りを見せないのなら、舌先で唇を割り開き、より深くまで絡め合わせる。離してはまた角度を変え、あたかも恋人同士がするかのように。
「どうだ、気の迷いは覚めたか」
「……っ、いいえ……」
「ならばもう少し試してみるとしよう」
「あ……!」
腰を抱いていた手を幾分下ろし、形の良い尻の線をそっとなぞる。空いているもう片方の手をローブの上から豊かな胸に重ねる。驚くほどに早い脈を刻むそこを私がまさぐろうとも、アルマは拒むでもなく情熱的な口づけで応えてくる。私と同じか、あるいはそれ以上に、この娘もまたこの行為を求めていたとでも言わんばかりに。
「いい加減に目は覚めたか。おぞましく不快だとは微塵も思わんのか」
「いいえ……いいえ」
愛撫をしながらたっぷりと舌を絡めた後で私がそう問えば、熱に浮かされたようにとろけた瞳の娘が切ない声で懇願する。
「バラダスさん、あなたを愛しているんです。だからここでやめるなんて言わないで……教えてください、この先を。あなたと一つになりたいんです」
強固だったはずの我が理性はあたかも炎に触れた氷のように溶け、この娘を求める想いだけが私の全てを突き動かす。ずっと欲していた。ずっとこうしてこの娘に触れてみたかった。甘い声で喘がせ、私の名だけをいつまでも呼ばせてみたかった。
長らく秘めたるそれらの願いは、今叶う。
「……真に愚かな娘よ。だが……誰よりも愛している」
寝台の上に横たえた一糸纏わぬアルマの頬に触れながら、私は再び唇を重ねる直前に想いの丈を囁いた。
