Femme Fatale 2

「バラダスさん……ありがとうございます。私、今とても幸せです」

 行為を終えた後、私の腕の中に身を預けたままあの娘はそう言った。あの娘のこんなに嬉しそうな顔を見たことは後にも先にも1度もなかった。あの娘はその時確かに、愛された女の顔をしていた。私も同じだと言いたかったが、同時に恐ろしい罪を犯したような気がしていた。決して手に入れてはならないものを、無理矢理に奪い取ってしまった感覚を覚えていたのだ。

 嘘偽りなく述べるならば、あの娘が清い身であると考えたことなどなかった。見目麗しく、物腰柔らかく、人から好かれる性質であるならばなお、私と出会うよりも前にそれなりの付き合いを持っていたものと疑っていなかったのだ。

 不器用なりに誘惑の真似事をしてきた時も、経験が少ないのだろうとは想像していた。だがまさか、1度たりとも男を知らぬ身であると思ったことなどなかった。下手をすればアリョンの若造あたりに手を出されていてもおかしくはない立場ながら、あの娘はその時まで純潔を守り続けていたということになる。それを失う機会など望めばいつだって手に入っただろうに、なぜあの娘はわざわざその相手に私を選んだのか。

 その理由を、私は恐れていた。もはや短いとも言えなくなった付き合いで、あの娘がどんな魔術師なのかは私とて十分に理解している。あの娘はいずれ私を追い抜き、アリョンや他の評議員をも超え、テルヴァンニの頂点を極めし位置に値する魔術師になるだろう。私とは居るべき場所の違う、本来ならば違う世界に生きる者なのだ。

 一時の気の迷いで道を踏み外すにはあまりにも惜しい逸材、私自身あの娘をそう評価していた。私を愛しているなどという、嘘か真かもわからぬ想いのために、西の辺鄙な町の塔に縛られていいような者ではない。ここで、私の側で、満足することがあってはならないのだ。

「バラダスさん、また来ます。どうかお身体には気をつけてくださいね」

 一糸纏わぬ肌の温もりを分かち合いながら1晩を共に過ごした後、あの娘は名残惜しそうに1度唇を交わしそう言って塔を降りた。途端に襲い来る孤独、あの娘がここにいないという喪失。今までは気づきもしなかったことが、夜明けと共に白日の下に晒される。開けてはならぬ扉を開け、してはならぬ行為に耽溺した。あの娘の大成を願うならば、身体を交えるべきではなかった。こんな老いた魔術師に時間を割くのはやめ、正気に戻れと、例えもう2度と顔を合わせなくなろうとも諫言して然るべきだったのだ。

 それなのに、私は自らの欲望を優先した。1度でもあの娘を抱けばどうなるかに薄々気づいていながら、その事実に私は目を背けた。あの娘が望んだことだと、私はそれに応えただけだと、話にもならぬ理由をつけてあの娘をこの腕に抱いた。思い返すだけで情欲が蘇る、鮮烈な1夜の情交の記憶。再び繰り返すことのあってはならない、私の生涯で最大の過ち。

 あの娘が去り、またこの場に現れるまでの数日間、私は己が身を切られるほどの苦痛を感じ、自分がどれほどあの娘を求めているのか思い知らされた。1日1日は途方もなく長く、いっそあの娘がもうここには来なければいいと、苦しさのあまりそんなことさえ考えた。

 なぜならば次にあの娘と相見えた時、私は決別を告げるつもりでいたからだ。あの娘を東の地へ戻し、歩むべき大魔術師の道に返そうと決意していた。それ故に傷つけ、憎まれ、あるいは命を落とすことになろうとも、このままあの娘を老いた私の堕落に引きずり込んではならないと思っていた。

 ――そして、その時はやって来た。

「バラダスさん!」

 私を見るなりその場が明るくなったかのように綻ぶあの娘の表情。駆け寄ってくるその手には控えめに包まれた花の束を携え、おずおずとそれを私に向かって差し出しながらあの娘は言った。

「あなたはお好きではないかもしれませんが、ちょうどこちらに伺う途中で目に留まったもので。バラダスさんの側にいられない間も、これを見て少しでも私のことを考えていただければと思ったというのもあるんですが……」

 今なお気恥ずかしそうに頬を染め、あの娘が私をその目に映す。曖昧な返事をしながら花束を受け取った私は、早くも決意が揺らいでいくのを感じていた。

「ああ……あなたに会いたかった」

 私の背に腕を回したあの娘は切なげな声で呟いた。

「離れている間、いつもあなたのことを思い出していました。今何をしていらっしゃるのか、こうしてお話しできないのは寂しくて……昔も同じだったはずなのに、今はもっと寂しく感じるんです。この前、あなたと2人で過ごした夜から」

 会えずにいた分をも取り戻そうとするようにあの娘の腕には力が込められ、私はついその背に手を添えてしまう。理性をかき消す愛しき香り。本能は狂ったように喜びを感じている。あの娘が私に口づけても、私はその肩を突き放すことができなかった。従属の魔術にかかった者さながら、求められるがままに応じてしまう。

 数日前の夜のように、徐々に各々の呼吸は乱れ、それぞれの手がお互いの肌を探る。私の頭の中ではけたたましい警告が鳴り続けていたが、まるで自分の身体ではないかのように自由など効きはしなかった。

 しかし……。

「……っバラダスさん、お願い……!」

 ローブから覗く柔らかい肌にこの手を導かれて触れた瞬間、私は冷水でも浴びせられたかのようにはっと正気を取り戻した。この願いを聞き入れてはならない。何度も自問した問いの答えを突きつけるのなら今しかない。

「やめろ、アルマ」
「!」

 自分でも驚くほどにその時の私の声に色はなかった。しかしそんなことを考える暇などないほど、あの娘は虚を突かれた顔をしていた。

「我々はこんな行為をすべきではない。この数日でお前もそれが理解できたと思っていたのだが」
「え……? バラダスさん……ど、ういう……こと、ですか?」

 怒りでも悲しみでもない純粋な困惑。私の手を握ったままのあの娘の指先は微かに震えていた。

「今言った通りだ。お前と私は良き友だった、それをわざわざ壊すような真似をする必要があるか?」
「そん……な……そんな……私は、だって。バラダスさんも、あなたは……だって、そんな」

 困惑は混乱へと変わり、あの娘は怯えた目で私を見ながら僅かに後ずさった。それは今しがたまでの、あの夜のような愛に満ちた甘いまなざしではなく、誰か見知らぬ者を見るような恐怖さえ感じられるものだった。

「アルマ、お前は若い。こんな気の迷いで道を違えるな。テルヴァンニの魔術師として、今お前の成すべきことを成せ」
「……どうして急に、そんなこと……」

 あっという間に目に涙を溜め、あの娘は絞り出すような声で言った。私は心臓のあたりが引き絞られるような鋭い痛みを覚えたが、投げかけられた問いには答えなかった。

「私が……何か気に障ることをしたならおっしゃってください。もう2度と同じことは繰り返しません。バラダスさんの、あなたの意に沿うように努力します。だから、だからどうかそんなこと」
「アルマ」

 それ以上はとても聞いていられず、私はあの娘の言葉を遮った。一角ならぬ想いを寄せた相手が、この足にも縋ろうと言わんばかりに身を投げ出し慈悲を乞う姿を見て、全く心を動かされぬほどには私も非情ではない。

「バラダスさん……!」

 一縷の望みを託し、かき消えそうな声で最後に1度呼ばれたこの名。打ち明けた想いを拒まず、あまつさえ自ら睦言を返しさえした、そんな相手に突如拒絶されたあの娘の胸中など手に取るようにわかる。もしも今すぐその側に駆け寄り、背を抱いて慰めてやることができれば。本心ではなかったと、私は今も変わらずお前を愛していると、そう告げることができていたなら――しかし私は口を開かなかった。

「……っ!」

 乱れた衣服をかき合わせ、あの娘がさっと踵を返す。そして何も言わずに駆け出すと、神秘魔術を用いて何処かへ消えた。今度こそ、もう2度とあの娘はここには戻って来まい。そうするように私が仕向けた。そうなるように意図して傷つけた。あの娘が考え直し、私へ抱いていた感情が愛などではなかったと気づくように。

 独りに戻った塔の中で、あの娘が置いていった花の香りだけがやけに鼻につく。側にいられない間も自分のことを思い出してほしいなどと、そんな純粋な遊びを持ち掛ける相手として私はもはや老いすぎたのだ。もし私がアリョンのように若ければ、あるいはあの娘の望みを叶えてやれたかもしれない。先祖より受け継いだこの塔を離れてでも、あの娘のためならば何をも悔いはしなかっただろう。

 だが片田舎の塔の中で細々と研究を続けるだけの身となり果てて久しい私には、あの娘は眩しすぎる。既に何百年もの齢を重ねてきたこの手には余る。あの娘が私をどう思っていようとも、私があの娘をどう思っていようとも、世の理に照らし合わせればこれが間違っていることなど明白だ。そんなものなど歯牙にもかけぬことで知られるテルヴァンニの魔術師たる私とて、己の強欲で手にしていいものかどうかの区別くらいはつけられる。そしてあの娘を真に想っておればこそ、私ではその役が務まらぬこともわかっていた。

 目には見えずとも血を流す、我が胸の老いたる心臓。あと何度この痛みを耐え忍べば、忘れ難き記憶が薄れるのだろう。そもそもそんな日は本当に来るのだろうか。あの娘を、アルマを、記憶から消してしまいたい。あの娘と知り合う前の、何も知らず安穏としていられた頃の、この世に存在する幸福の味を知らずに生きていた日々に戻れたならば。

 だがそれでも私はどこかで考えている。あの娘を忘れて生きていくより、あの娘を想い苦しみ続ける方が、私は幸福なのではないのかと。あの娘の噂を風の便りに聞き、消えぬ想いを寄せ続ける方を、私は望んでいるのではないかと。

 意味も答えもない問答を繰り返して何日もの時が過ぎ去った。あの娘の持ってきた花はゆっくりとその盛りを終え、枯れ始めている。何処へと捨て去ってしまえばよかったものの、私はそれに手を触れることさえ叶わなかった。あの娘を思い出させる全てのものを視界から消してしまいたいと願いつつ、それを実行に移せるだけの気力が持てることはついぞなかった。

 私はこれから先の長い時間を、死んだ思い出と共にこの塔で過ごしていく。ただ1度この腕に抱いたあの娘の記憶と共に、このヴェロシの塔の中で朽ちてゆくのだ。

 しかしそれに後悔などなかった。私は自らの最善を尽くしたのだ。いつかあの娘もそれに気づく。そうであってほしいと願っている。私が老いたこの身を引くことで、あの娘が真実の幸福を手に入れられるのならばそれでいい。それでよかったのだ。なのに――。

「……どうした、今日は」

 思いがけぬ来訪者を前に、私はそれだけしか言えなかった。私の視線の先にはあの娘が、アルマが、真っ直ぐにこちらを見ていた。アルマは何も答えなかった。ただ酷く真剣な面持ちをしていた。そして私はアルマが私を殺しにやって来たのだということに気づいた。あれだけの恥をかかせ、純潔を弄んだにも等しい振る舞いをすれば、いかに純粋な者でも邪悪な怒りに身を任せたくもなるだろう。

 私はどこかでそれをも覚悟していた。またそれに抗うつもりもなかった。アルマがもし私の死というものを心から望むと言うならば、それを最後に叶えてやりたいと思うほどには焦がれていたのだ。アルマなしで生きる日々は死と大差ないと気づいた時に、私の生というものはある意味終わりを迎えていたのかもしれない。

「……バラダスさん……」

 驚くほど完璧に感情というものを排した表情は変えぬまま、それでも内心の揺れを感じさせる掠れた声でアルマはただ1度私を呼んだ。短剣でも持ち出されるか、あるいは魔術を放とうとするか。そのどちらなのかを見極める前に、アルマは掌をこちらに差し出した。

「私と結婚してください」
「――!」

 世に存在する最も高貴なる宝石、それをはめ込んだ指輪がそこに輝く。私は耳にした言葉の、目に映るものの意味が理解できず、ただ呆然とその場に立ち尽くした。全く意味がわからなかった――それはこの何日もの間脳裏に浮かんでは消えた想像のどれとも決定的に違っていた。

「私はあなたを友人だと思ったことは1度もありません。私にとってバラダスさんは、あなたはいつも“男の人”でした」
「……お前は、何を……」
「あなたを愛しています。例えあなたが……私が望むようには、私を愛してくれる日なんて来ないとしても」

 頑なに強張っていたアルマの表情は次第に緩み、懐かしさのあまり天を仰ぎたくなるようなまなざしがもう1度私を見つめる。あの夜、私を映していたのは間違いなくこの瞳だった。2つの月から注がれる光よりもなお淡い優しさを放つ、愛と敬意とに満ちたまなざし。一時の気の迷いや戯れではなく、己の幸福の在りかをここだと確信している者のみが持つ光。そんなものを前にして、私は一体どう抗えばいいと言うのか。

 私の愛を求め、そしてそれを至上のものとして受け取ったあの娘は、今再びこのヴェロシの塔に変わらぬ想いを携え姿を見せた。もはや万策尽きた。私にはもう、この愚かな娘を説得する手立てなど残っていない……。

「……わかった」
「え?」

 差し出された指輪を持つ手が小さく震え始める頃、私はようやくその返事を口にした。吐息とそう大差もなかったであろうそれを、アルマはすぐさま聞き返した。しかしそれを私は不快だとは思わなかった。

「お前ももう赤子ではない、自分が何をしているのかくらい分別がついているのだろう。ならば私はそれに異を唱えん」
「それは……つまり……」
「はっきり言わねばわからんのか。お前の申し出を受けると、そう言っておるのだ」

 その目が丸く見開かれたと思った時にはもう、アルマが私の胸に飛び込んでいた。声を上げて泣きながら、私を愛していると何度も繰り返した。私はアルマの背に腕を回し、強く抱きしめることをもう迷わなかった。涙に濡れた唇を重ねれば、別離によって引き裂かれた心臓の傷さえ癒えていくような気がした。1度は失った愛を、私は再び手に入れたのだ。

「アルマ、私もお前を愛している。いつの頃からか、1人の女としてのお前を」
「バラダスさん……」
「私は1度お前を欺いた。だからこそ今1度お前に誓おう、これから先は決してお前にいかなる偽証も口にはせぬと」

 アルマの頬を伝う涙を拭い、私は静かにそう告げる。私を抱きしめるアルマの細腕の力がまた少し強くなり、深い口づけが幾度も交わされる。

「お前がこの老いた身を望むと言うなら、私は生涯をかけてその願いに応えよう。お前には不相応な身だが、何かの役には立つかもわからぬからな」
「不相応……? あなたが?」

 アルマがきょとんとした顔で私を見つめ返し、我知らず己が口元が綻ぶ。

「誰が見てもそう言うであろう。お前は若い、望めばお前に釣り合う男などそれこそいくらでも手に入る」
「心外です。私こそ本当はバラダスさんの妻になんてとてもなれない身の上かもしれないのに」

 その口から出た私の妻という言葉に不思議な感慨を覚えながら、どこか不安げな顔をしたアルマの髪を丁寧に撫でてやる。

「不毛な議論はやめるべきだな。我々はどちらもテルヴァンニの魔術師だ、他人の目など今さら気にすることもない」

 私は1度アルマから手を離した。もう2度と同じ過ちを繰り返すつもりはない。アルマが私を望む限り、私はもはやその側を離れない。

「バラダスさん、これからは妻として生涯あなたにお仕えします」
「そうか。ならば早速役目を果たしてもらうとしよう」
「あ!」

 あの夜と同じ寝台の上に抱き上げたアルマを下ろす。褥の上に広がる髪に口づけ、その身を隠すローブを脱がせていく。

「子は何人いても構わん。お前の目を受け継いでいれば更に良い」
「ん……バラダスさん……気が早い、です」
「遅すぎると言うべきではないのか? お前がもし私の歳を知っているのならばな」

 私を見上げて微笑むアルマの何と愛しいことか。この老いた胸を締め付ける感情の名を、私はようやく知ることが許された。いつの日か死が我々を引き離す時が来るまで、私はこの日のことを決して忘れはしまい。私という存在を根底から創り変えた、私にとっては神にも等しい女を手に入れた日の出来事全てを。

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