Farewell

 部屋の扉が音もなく開き、何事もなかったかのようにすっと閉められる。姿形は見えずとも感じる、誰かが入ってきたという気配。無論、何らかの魔術的な力が働いているであろうことに疑いはないが、大司教たる私の自室にはいつも鍵がかけられていて、常日頃ならこんな風に出入りをしようという者がいるはずもない。

 しかし、今の私には確信に近い心当たりがあった。かつてまさにこの場で私から破門を言い渡された相手が、雲をつかむような呼びかけに応えて再びこの場に現れたのだということを。

「……来てくれて感謝する、アルマ」

 私が口を開くのと、その者の幻惑術が解けるのとどちらが早かっただろうか。お互いに存在を見破り、また見破られていたことなど至極当然だと言わんばかりに、私たちはどちらも驚き一つ見せず部屋の中で向き合っていた。

「そなたもかつては我らの一員として聖堂にいた者だ。ネレヴァリンに対する我々の教義については承知していることと思う。そして……恐らくはそれを変える時がやってきた」

 私が言葉を紡ぐ間、相手は声一つ立てることはなかった。柔らかい微笑みに彩られていたその顔は今や窶れて強張っており、私に向けられている瞳にも以前のような輝きは見られない。誰よりも熱心に教義を学んでいたこの者から縁となり得る全てを奪い、聖堂の敵として追放を命じた私のことをアルマは決して許してはいないのだ。

 説法の依頼を受けた帰り道、行き倒れていたアルマを偶然見つけ命を助けた時から、私はこのブレトンの若い娘の成長を折に触れ見守ってきた。トリビュナルの、また聖堂の祀る聖人たちのことを理解しようと努め、日がな一日図書館にこもって勉強に励んでいるアルマに、たまには外の空気を吸ったらどうかと散歩に誘ったことさえある。

 この者は実に素直で、聖堂の司祭として理想的な素質に恵まれていた。その身に秘められた大いなる魔力で人々を助けることを厭わず、穏やかな優しさと、また必要とあらば行使できる厳しさをも併せ持っている。長らく教義を学んでいる者でさえたどり着くのが難しいであろうところまで、アルマは瞬く間に駆け上がった。そして、私はそれを誰よりも喜んでいた。

 聖職者としては由々しきことだが、やっかみもいくつかはあっただろう。この者はダンマーではなく、ただの信徒ならともかく、トリビュナルに仕える身分には相応しくないという声もたびたび聞いた。だが私はそれらの意見を聞き入れなかった。そのような不平不満を口にしている者よりも、このブレトンの娘の方がはるかに神に仕えるに値すると確信していたからだ。

 ――そう、このアルマこそが異端者たちの希望、ネレヴァリンその者であるという確たる証が立てられるまでは。

「そなたはダンマーの民たちから選ばれた。そして目覚めつつあるダゴスの者に対してもはや聖堂は太刀打ちできない。民を守ることができるのは、今やそなただけしかいないのだ」
「…………」
「我々の状況は絶望的だが、詳しくはヴィヴェク卿自身の口から聞いてほしい。あの方がそなたとの面会を希望された。そなたはヴィヴェク卿にお会いし、直接話を伺うつもりはあるか?」

 白々しいことを言っている、その自覚は私自身とて持っている。何も企んでなどいないと、信じてほしいと涙を流し慈悲を乞うこの者を私は冷酷に突き離し、司祭としての身分を剥奪し、命を取らない代わりに今すぐここから出て行くようにと迫った。あの時のアルマの目に宿った絶望の色、それを私は今もまだはっきりと覚えている。

「……相変わらずですね、サリョニ様は」

 長い沈黙の後、表情を変えずに目の前の娘はそう呟いた。それはどこか諦めの色を纏った、ともすれば聞き取れないような小さな声だった。

「あなたを信じられない、と……もし私がそう言ったらどうなさるおつもりです? ヴィヴェク卿の宮へ足を踏み入れた途端、どこからともなく現れたオーディネーターたちが私を殺さないとも限らないのに」

 感情を失ったような声でそう言うアルマの顔は皮肉げに歪み、それでいて今にも泣き出しそうにも見える。私は思わずこの手を伸ばして抱き寄せたい衝動に駆られ――寸前で何とか思い留まった。

「すまない、そなたの言うことはもっともだ。だが教父の立場にある者として、私は民を異端の教えから守る責務を負っている。したがって聖堂がそなたや、離反した司教たちに取っていた策について詫びることはできない。できないが……このような諍いはもう止めるべきだとも思っている。僧兵たちの全てが私の掌握下にないことを考えれば、そなたの身の安全を保証できないのは心苦しいと言うより他にないが」

 私がそう言うと、アルマはほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。だがその目はどこか遠くを見ていて、すぐ前に立っている私を映しているとはとても思えなかった。

「頼む、アルマ――いや、ネレヴァリン。頼める義理ではないとわかってはいるが、どうかこのサリョニの願いを聞き届けヴィヴェク卿と会ってはくれないか」

 私は聖堂の大司教だ。モーンホールドのドリンと並び、トリビュナルの神々の最も側近くに仕え、モロウィンドの民を導かねばならない。その何にも勝る使命の前には、私個人の感情など取るに足りない、勘案すべきでないものだと長らく信じて生きてきた。

 しかしそんな私がただ一度、この地位であることを心から悔やんだ瞬間が、アルマに破門を言い渡した時だった。私はこの者と親しみ、あろうことか立場を超えた好意を持っていた。決して明かすことはできなかったが、私はアルマのことを愛していたのだ。

 トリビュナルを滅ぼす預言の者、神々を脅かす聖堂の敵。それがこの者だとわかった時、この場でアルマにそれを私自ら問い質した時、私は生涯でただ一度だけ嘘でも構わない、どうか違うと言ってくれと心底願った。もしネレヴァリンではないとアルマが一言でも言ってくれていたなら、私はどんな犠牲を払ってでも必ずこの者を守っただろう。

 だがアルマは私が常々教えていたように、誠のみをその口にすることを選んだ。しからば私が取れる道は一つしかなかった――その場でこの者を捕らえ直ちに首を落とす代わりに、全てを奪い何処へなり行くがいいと着の身着のまま放逐することしか。

 愛する者を絶望の淵に突き落とし、恨まれ、憎まれ、もう二度と会うこともないであろうと思わせられることは、私にとって耐え難い苦痛だった。これまでどんな困難に遭ったとしても信仰が揺らいだことなどただの一度もなかったというのに、この時ばかりはなぜアルマを、こんなにも一途に教えを実践している者をかくも非道に断罪せねばならないのかと、疑問を抱かずにはいられなかった。

 しかし、私は大司教たる己が身の義務を忘れることはできなかった。そして、私が愛した敬虔なる娘は涙を零しながら何も言わずにここから立ち去ったのだ。

 アルマを僧兵に引き渡さなかったことで私は当然ながら責められた。異端者は棄教しトリビュナルに帰依すれば許されることもあるが、神と崇められる者は生かしておけない。過去何人ものネレヴァリンを名乗る者たちがオーディネーターたちによって討ち取られている以上、この者だけ扱いを変えるというわけにもいかないことは明らかだった。

 しかし他ならぬヴィヴェク卿その方が私を憐れみ、この大罪を不問としてくださった――これまで長きにわたり真摯に仕えてきた私の、その忠誠への報いの一端だとして。

 失われた愛を忘れるために、私はより一層仕事に没頭した。祈り、働き、説法をして、民を鼓舞し信仰心を高める一方、側に仕えているからこそトリビュナルの神通力の衰えを如実に感じていた。ダゴスの者による脅威の報告は日を追うごとにますます増えていき、いずれトリビュナルの手にさえ負えなくなるであろうことはいつの頃からか予想がついていた。

 だからこそ異端者への弾圧を黙認しつつも、私はアルマの存在に一欠片の希望を見ていた。もしあの者が真実のネレヴァリンであるならば、この絶望的な状況にある民草を救うことができるかもしれないと。

「サリョニよ。お前が目をかけていたあの者……アルマという名だったか。あの者と個人的に話がしたい」
「……!」

 そしてヴィヴェク卿から直々にそう請われた私は、一縷の望みをかけてレドラン家のサレシ評議員の元へと書を届けさせた。生きて再び会うことはないであろうと思った相手と、もう一度こうして顔を合わせるために。神の住まう宮の鍵を守る者として、ネレヴァリンたる者にそれを手渡す大義を果たすために。いつかこうして私の前に姿を見せてくれるはずだと、一心に祈りを捧げながら。

 ――そして、この者は現れた。私への、トリビュナル聖堂への怒りと憎しみを今もその胸に抱きながらも、かつて我が家と呼び研鑽に励んだ、因縁深いこのヴィヴェクの都へと。

「……わかりました」

 その時、囁くような声でアルマは言った。

「ほ、本当か!?」
「サリョニ様、私はあなたを困らせたいわけではありません。そんなことを望んだことは一度もありませんでした。私がまだここであなたの説く教えを学んでいた時も、今も」

 その言葉に私ははっと口を噤み、もう一度まじまじと相手の顔を見た。今度はアルマの瞳もはっきりと私を見つめていた。その瞬間、言葉にできない感情がいくつも私の胸の中にほとばしる。私は忘れてなどいなかった。忘れることなどできるはずもなかった。なぜなら私は今も、ずっと変わらずアルマのことを――。

「宮殿の鍵だけいただきます。この部屋の鍵は……もう戻る理由もない私には必要ありませんので」

 ヴィヴェク卿の住まいの鍵と私の部屋へ出入りするための鍵、その二つを差し出した私の手から一つだけが離れていく。それは残酷なほど明確な答えだった。すなわち、この者を守ることもせず刃を向ける命を下した私の顔など、アルマはその命ある限りもう永久に見たくはないと。

「……わかった。ならば行くがいい」

 今度こそ、アルマに相見えるのはこれが最後になるだろう。あり得ないと思っていた再会が叶った今、もはや次などないことは私とて十分にわかっている。

 もう、この者に会うこともない。アルマをこの場で追放した時にも同じ覚悟を決めていたはずなのに、再び顔を見てしまった今の方が比べ物にならないほど辛く感じる。まるであの時よりも今の方が、この者をずっと深く愛していることを証明しているかのように。

「ええ。でも……もうサリョニ様にお会いすることもないと思いますので、一つお話ししたいことがあります」
「話?」
「はい」

 いつか出会った時のように傷つき、疲れ果てた様子のブレトンの娘は、私を真っ直ぐに見上げるとかつてと同じ優しい声で告げた。

「ソラー・サリョニ大司教、私はあなたを愛していました。偉大な司祭様というだけではなく、もっと別の意味で……あなたのことをお慕いしていました。できることならお側にいたかった。サリョニ様の……あなたの側に」
「……っ!」
「お伝えしたかったことはそれだけです。さようなら、どうかお元気で」

 思いがけないアルマの告白に、私は声を出すことができなかった。何一つ返事もできないうちに、在りし日の優秀な司祭は再び姿を消すと音を立てずに扉を開けて出て行った。

 私の為すべき仕事は終わった。あの者は約束を違えたりはしないだろう。ヴィヴェク卿の望みは叶い、アルマはダゴス・ウルを討伐する旅に出るはずだ。なのになぜ私はこんなにも苦しくてたまらないのだろう。

 もし、あの者がネレヴァリンでさえなかったなら。そんなことを考えても何かが変わるわけではないのに、それを思い描かずにいることなど誰ができるだろうか? アルマは私を愛していた。あの者もまた、私のことを。私が、アルマを愛するように。

「……アルマ……」

 届かぬ想いを馳せるようにその名を口にしてはみるものの、私以外に誰もいなくなった部屋の中から答えが返ってくることはなかった。