「バラダスさん、もうこんな時間ですよ」
手元の本の頁がにわかに陰り、顔を上げればアルマがすぐ傍らに立ち私を見ていた。どこか呆れたような、それでいて幼子を見守る母のような目をしたその娘は、そっと私の腕に触れると部屋の隅にある寝台を示す。
「そろそろ休みましょう。本は逃げませんよ」
「気にするな。お前は先に寝ておればいい」
そう告げればつと唇を引き結び、アルマは恨めし気に私を見上げる。
「独りでは嫌です」
「子供でもあるまいに」
「子供ではないから、ですよ」
思いがけぬ返事に私が口を噤めば、ブレトン娘は失言に気づき慌ててその目を瞬いた。
「あ……っ別に、そういう意味じゃ! ただ、あのベッドは独りでは広すぎるので」
「私はそう思ったことはないがな」
「バラダスさん……!」
途端に取り乱す姿もまた何とも言えず愛おしいものだが、よくもまあ毎日相も変わらず同じことを繰り返せるものだと思う。いかに婚姻の絆を結んだ相手とは言え、私のような老いぼれと枕を共にしなければ眠れぬわけでもあるまいに。
それでもアルマの懇願するようなまなざしに負け、私は渋々手にした本を閉じた。その娘の目がぱっと輝き、口元は嬉しそうに綻ぶ。長年使った寝台に身を横たえればすぐにもう一人分の重さで枠木が軋み、かつて中央だった私の居場所は今やもう少々端へと移動している。
「おやすみなさい、バラダスさん」
静かな塔の中で、アルマの囁き声だけが夜の闇に響く。しかし例えそちらに顔を向けずとも、その娘がまだ私を見ていることくらいは手に取るようにわかった。そしてしばしの後に細い手が私へと伸ばされ、アルマがこちらにその身を寄せる。その温もりを抱き留めるように私がやおら身を捩れば、この背にそろりと腕を回した相手が胸元に頭を預ける。
「……愛しています」
毎晩変わらぬこの儀式。だがそのどれ一つたりとて、想いの伴わぬこの言葉はなかった。
「おかしな娘だ。何も好き好んでこんな場所に己を縛り付けることもなかろう」
その頭を片手で抱き寄せ、髪を梳くようにして撫でてやると、アルマが私を抱きしめる腕の力がまた少し強くなる。
「愛する人の隣にいたいと思うのはいけないことですか?」
どこか批難めいた、それでいて哀れを乞うようにも聞こえる声でその娘は小さく反論する。私は何も答えず、ただその柔らかな髪を撫で続ける。
「私の幸せは、あなたです」
歯の浮きそうな文言を噛みしめるようにして呟きながら、アルマはまるで私が霞めいて消えんとしているかのように両の腕でしがみついた。
「バラダスさんこそ、どうして私を側に置いてくださっているんですか? あなたは……あなたはきっと、本当は」
「アルマ」
私は相手の髪を撫でていた手を止め、その名を呼んで口づける。唇を重ね合わせるだけの、親愛にも近かろう接吻を。
「お前が望むならば、私はお前のすることに異は唱えん」
望むならここに居ればいい。望まぬのならばいつでも出て行けばいい。それが必ずしもアルマの望む態度でないことは理解していても、私ができ得る限りの応え方はこんなものでしかないのだ。求めるのならば与える。だが求められなくなれば引き留めない――どんなに私がそれを望んでいても。
「……あなたは大人ですね」
「どうしたのだ、突然」
「私は……まだとてもそんな風に考えることはできそうもありません」
悲しみを宿した声でそう言うと、娘は再び私の胸に顔を埋めた。
「私はあなたに求められたい。どこにも行くなと、ずっとここにいろと言ってほしいんです。あなたの子供をたくさん産んで、いつまでもここで一緒に暮らしたい。でも」
あなたは本当は私のことを愛しているわけではないんでしょう? ――その言葉の最後は涙ではっきりと聞き取ることはできなかった。
「……愚かなことを」
我らエルフにとっては光の如く過ぎ去る人間の短き日々。既に老いて久しい私の子を身籠っている時間など惜しいだろう。取り返しのつかぬほどに深く相手を愛している自覚があればこそ、断ち切られてしまう定めの絆をこれ以上結びたくないということもある。
いつの日かアルマがここを去り、あるいはこの世から姿を消した時、その面影を色濃く残した子とこの場で生きていくことなど耐え難いのだ。子の母が、我が生涯唯一の妻と定めた者であるアルマが、もはや私の隣にいないのならば。
「愚かな女は、お嫌いですか」
この手で拭えども拭えども、娘の白い頬を濡らす涙は尽きない。ぽつりと呟かれた言葉には、胸を貫くほどの悲しみが宿っていた。
「それがお前を指しているなら、そんなはずがないことくらいわかっておるだろう」
「わかりません。はっきりとおっしゃってください」
「……アルマ……」
嗜めるようにその名を呼んだところで相手からの返事はなく、アルマは怯える幼子めいて私の背にただその腕を回す。私の他には恐らく誰も知らぬであろう、この頑固な一面。人当たりの良いことで知られるこの娘が私の前でだけはこうも違う。私と二人でいる間だけ、アルマはどこにでもいるただの女に戻る。英雄でも、救世主でもない、ただ我が妻だというだけの女に。
「私はお前と婚姻を結んだ。それだけでは不満だと言うのか?」
私が心の奥底に秘めたる願望と、アルマの望みの妥協点。それを皮切りにどこまでも相手を喰い散らそうと機を窺う欲望を、己の意思だけで律することなどこれ以上踏み込めばできそうにない。
「昔は、こうしてあなたの側に……バラダスさんの隣にいられるのなら、例えあなたが私を見てくれなくても構わないと思っていました。私があなたを愛するように、あなたが私を愛してはくれないとしても」
「…………」
「なのに今は……あなたの心が私に向いてくれないことが、どうしようもなく辛くて……っ」
私もテルヴァンニの魔術師だ。強欲に、貪欲に、欲しければ奪い、手段など選ぶまでもない。たかが小娘一人、その気にさえなればいつでもこの私のものにできるのだ。空を飛ぶための翼を引きちぎり、この塔からもはや一歩も外には出さず、他の誰の目にも触れぬところで生涯に渡り我が愛を注げる――だからこそ。
「皮肉なことだ。私がお前をかくも深く想っていなければ、とうの昔にお前の望みは叶っていたであろうにな」
「ど……ういう……こと、ですか……?」
気にかけるまでもない塵芥、もしアルマがそんな存在のままであれば。そうであったなら私がこの手を伸ばすのに躊躇などなかった。気の向くままに相手を蹂躙し、その後を省みもせずに打ち捨てたところで、痛むような良心など元来持ち合わせているわけでもない。
だがアルマは私にそれを与えてしまった。痛みを伴うほどの純粋な想いを私に寄せ続けることで、私の中にこの娘を慈しむ感情を生み出してしまった。愛しいと、傷つけたくないと、そんなくだらぬ思いの数々を、孤独に生きていたはずの私に。
「私があなたの側にいるのは迷惑……ということですか?」
「お前がそれを本気で問うているなら答えは否だ」
「なら……!」
アルマがはっと顔を上げて私を見る。私はただその瞳を見つめ返す。娘は何かを言いかけて唇を微かに開きはしたが、次の瞬間再び私を強く抱きしめるとただ一言こう言った。
「あなたが私をどう思っていても、私はあなたを愛しています」
この世でただ一人、私の心臓に易々と手がかけられる女。愛と情欲の全てを捧ぐ、我が老いた身を焦がす想い人。その真摯な愛の全てを受け取らぬことが他ならぬ相手のためだなどということは、まだ若く感情的なアルマには到底理解できまい。
私の柄でもない優しさが逆にこの娘を傷つけていると理解はしていても、愛しているからこそ逃がしたいのだ。私の強欲極まる想いがこの娘を滅ぼしてしまう前に、逃れられる自由を残してやることが私の精一杯の愛情なのだから。
「ならば好きにするがいい。お前の想いが続く限り、私は拒まん」
口づけを求められれば接吻を交わし、抱いて欲しいとほのめかされれば肌を重ねる。私は何もアルマの寄せる想いの全てを拒みたいというわけではない。しかし……。
「ええ、好きにします。私の命が尽きて終わるその日まで……私はあなたの側を離れません」
その言葉を素直に真に受けるには私は既に歳を取りすぎている。この娘の言うことを疑わず信じたいと思う私もいれば、いずれの日にかアルマがこの塔に戻って来なくなる日のことを考えずにはいられない私もまた同時に存在するのだ。
そんな望まぬ未来など今すぐにでも潰してしまえばいい。私自ら残しておいた道だ、それを塞ぐことなど造作もない――この娘を愛していると気づいた時から、果てしなく膨らみ続けるその欲望との戦いは今もなお続いている。その手を捕らえ、縛り付けたい。その瞳に私だけを映させたい。危険に満ちあふれた外になど出さず、この塔の中で私が守ってやりたい。
そんなことをすれば今ある愛情さえ失うとわかっていても、本来の私が欲しているものなど所詮はそんな程度だ。愛している自覚がありながら、その実アルマを信じきることもできない。
だが私はそれでもこの娘を愛している。己が身を滅ぼすことさえも厭わぬほど。
「愛しているんです。あなただけを」
その誓いの証を立てるように、アルマの唇が私に重なる。私はただ細い背を引き寄せ、声にならぬ言葉を口づけへと変える――私もお前を愛していると、相手の命ある限りその身を縛る鎖となるであろう言葉を。
