あの娘がこの場を走り去った日からもうしばらくの時が経った。もはや再び顔を合わせることもない相手のことなど忘れてしまえばいいものの、どうやらそれを達成するまでにはまだだいぶ時間がかかるらしい。
手元の本を読んでいる間も、気づけばあの娘の声が頭の中で聞こえる。あの娘が私を呼ぶ声が、この耳に残って離れないのだ。あの娘の唇の柔らかさも、肌のなめらかさも、身体の温もりも、どんなに考えぬよう努めてもふとした瞬間に蘇る。私の長きに渡る生で犯した最も大きな過ちを、まるで記憶から消し去ることなどとても許しはしないと言うように。
あの娘を憎からず思っているという自覚はあった。それがいつの頃からだったのかは判然としないが、この塔の中にいつ何時でも招き入れていたという事実がすなわち私の無意識を反映していたのだろう。アリョンの若造の子飼いの魔術師であることを十分に知っていても、私はあの娘の来訪を拒まなかった。それどころか、あの娘がやって来る時を内心どこかで待っていたのかもしれない。
私は他人に興味などなく、他人から関わられることもまた好まない。だからこそこの塔を自らの居場所と定め、研究に没頭する日々を長らく過ごしてきた。あの娘がゴスレンからの質問を携え初めてここへとやって来た時は、けんもほろろに追い返してやったものだ。だがあの娘がアリョンに命じられ再びこの場に姿を見せた時、どうせならと本を探してくるように言ったことが全ての始まりだったのだろうか。
大した金も力もないあの娘には過ぎた要求であると知りつつ、どちらに転んでも私にとっては損のない使い走りだった。しかしあの娘はなけなしの財布の中身を叩き、言った通りの本を揃えてきた。手間賃替わりにと古びた付呪品をいくつか持たせてやった時の、驚きのあまりまごつくあの娘の様子は今でもはっきりと思い出せる。取るに足らぬ見習い魔術師からあの娘の名を覚えるに至ったのは、まず間違いなくあの瞬間だったのだろう。
アリョンの要望に沿うという返事を持たせて送り返した以上、あの娘がこの塔にやって来ることなどもうないだろうと思い込んでいた。だがあの娘はそれからも折に触れ、大した意味もなくこの場を訪れた。私の研究の手を止めさせ、他愛ない話をしたがるあの娘に、私は奇妙さを覚えこそすれ興味を持ちはしなかったはずだ。それなのに――。
「……どうしたのだ、今日は」
その日、あの娘は何とも言えぬ表情をして私のところへやって来た。聞けば、アリョンに言われるがままテルヴァンニの魔術師を支援に行ったものの、どうやらあの娘の中では納得しかねる案件だったらしい。敵方に理があると認識しながら自らの手を汚すということに、あの娘が葛藤を覚えていると気づいたのはしばらく話した後だった。
「それがどうした。お前もテルヴァンニの一員ならば魔術師がいかに強欲なものかは先刻承知だろう。特にあの若造は権力志向が強い。こうしてお前を使い力の及ぶ相手を増やすことに味を占めたなら、これからも同じような場面に駆り出されることなど誰の目にも明らかではないか」
「……ええ、でも……」
「ただ綺麗な魔術を使いたいだけならば帝国の魔術師どもと戯れておればよかったのだ。だがお前は我々の家を選んだ。そして例えお前が放逐されたとて、テルヴァンニだったという過去は消えん」
あの娘はじっと黙って私の話を聞いた後、つと俯いて小さな声で尋ねた。
「バラダスさんは、他にお弟子を取るつもりはありませんか」
私は大なり小なり動揺した。テルヴァンニの中でも異端と思しき私に、そんなことを尋ねてきた者などもう数世紀以上記憶にない。そしてその時問いかけられたこの言葉は、無論あの娘自身の身の上のことを指して問いかけられていたからだ。
「お前がアリョンの預かりであることなど知れたこと、今さら私が引き取る意味も理由もなかろう。それに元より弟子を育てるつもりもない。だが……」
何か言葉を付け加えるつもりなどなかった。しかし私は、全くそれと意識をせぬまま、あの娘に向かってこう言っていた。
「お前が私にそれを問うたことに関しては嬉しく思う」
「……!」
はっと顔を上げたあの娘の目は零れ落ちそうな涙で満ちていたが、先程までその顔にあった悲愴さは既に鳴りを潜めていた。あの娘は泣き笑いのような表情を見せると素早く目元をその手で拭い、いつもと同じ口調で別れを告げた。
「変なことをお尋ねしてすみません。バラダスさん、ありがとうございます。お元気で」
あの娘が塔を降りて帰った後、私は無性に募る苛立ちを覚えた。アリョンの若造はなぜあの娘をわざわざ弟子に取ろうと思ったのか。奴ならあの娘の愚直な素直さを利用することに何の躊躇もせず、また手駒の一つが壊れたところでそれを省みるようなこともあるまい。あの娘がそんな風に他人から傷つけられると考えた時、私は自分が柄にもなく憤りを感じていることに気づいた。これまでは一度たりとて覚えたことのない、非常に個人的な類の感情を。
私が自身の中にそんな不可思議な現象を見出してからもあの娘は変わらず、時折グニシスを訪れては私のところへ顔を出した。そしてその頃にはもうあの娘と言葉を交わすことに喜びを感じていたことを、何もかも全てが終わった今となってはさすがに認めざるを得ないだろう。初めこそ天気の話程度しか持ちかけることのできなかったあの娘は、やがて私のドゥーマー研究の大筋を理解できるほどまで成長していたのだ。他人との無用な関わりを避けて長い時が経ったとは言え、然るべき知識を持ち合わせた相手と議論を交わすのが嫌だと言うわけではない。
あの娘との会話は楽しかった。時には食事を共にし、夜更けまで話し込むようなこともあった。またあの娘は旅の間に身につけたというリュートを持ち込み、美しい音色を奏でてみせることもあった。
張られた弦をかき鳴らしていたあの娘の細く白い指先が、私の手に重なり強く握られた時の鮮烈な記憶。グニシスの夜に叙情を添えたあの娘の柔らかい歌声が、言葉にできぬ色香を纏い私の名を呼んだ日の出来事。私は果たして死よりも前にそれらを忘れることはできるのだろうか。あの娘が私を見つめた瞳の色を、このタムリエルに探さずにいられるのだろうか。
「ほう、指輪を見つけたか。ならば礼としてこのアニムンクリを持ってゆくがいい。多少の役には立つだろう」
「え!?」
それから何度かのやり取りを繰り返した後、私はあの娘にもう一つドゥーマーの遺跡の探索を依頼した。その頃は既にテルヴァンニの中でも中堅どころまで実力をつけていたあの娘には、言付けた指輪を持ち帰ることなどさして難しくもなかっただろう。そして私が自ずから修理を施したショック・センチュリオンを謝礼として与えると告げると、あの娘はいつか渡した付呪品を受け取った時より数段驚いていたように見えた。
「で、でも……あのショック・センチュリオンはバラダスさんがご自身で直されたものじゃ」
「何だ、不安か。長らく問題のある挙動は見せなかったが」
「違います! バラダスさんの腕を疑っているわけではなくて、私は……傷をつけずに済むような旅をしてはいませんので」
「ならば何を躊躇することがある」
あの娘は大きな目を瞬きながら私の意図を図りかねた様子でこちらを見上げた。その瞳を眺めていると、数百年の間感じることのなかった欲望がゆっくりと目を覚ましていくのがわかる。あの娘は美しい顔立ちをしていた。特にその目を私は好んでいた。清濁どちらをも映し、それでいて清の側でありたいと、またそうあろうとする儚さを私はとりわけ気に入っていた。
「お前の代わりにこれを使え。どんなに傷つこうとこれは文句を言わん。お前のために戦い、お前のために仮初めの命を捧ぐ。お前自身の命を散らす代わりに、これが砕けて地に倒れ伏すだけのこと」
「そんな、嫌です!」
私がそう語るや否や、珍しくもあの娘は声を荒げてそう叫んだ。もちろんすぐにはっと頬を染め口を噤み謝罪の言葉を述べはしたが、私は意図せぬ拒絶に少なからぬ落胆を覚えていたように思う。
「一体何が気に食わん。これは有用だ、お前の邪魔にはならぬだろう」
私は老い、もはや昔のように自らの足で遺跡を回れる歳ではない。だからこそ私はこのドゥーマーの遺物にそれを託した。あの娘と共に在ることはできずとも、もしそうであれたらという一抹の夢想の一端を現実のものとすべく、私が用いる雷撃の魔術をこの金色の機械に組み込んだのだ。だからこそそれを断られたということに私はすぐ納得できず、あの娘が申し出を拒んだ理由を問わずにはいられなかった。
「……私はオートマトンの修理方法を知りません。旅の間に何かがあっても、オートマトンをここまで持って帰ってこられるか……」
「壊れたならばどこにでも捨て置け。これはもうお前のものだ、私は文句なぞ言わん」
「嫌です! バラダスさんが……あなたがこんなに大事にしていたと知っているのに、そんなこと絶対にできません!」
「!」
私は思わず言葉を失い、ただあの娘の苦しそうな顔を見つめていた。そんな理由だったとは全く考えが及びもしなかったのだ。
「そのお気持ちだけで私には十分です。そうおっしゃっていただけただけで、私には身に余るほどですから」
「……ならばこの指輪を持っていけ。私が使っていたものだが、これならお前も拒むまい」
そう言って私が右手にはめていた指輪を抜いて差し出すと、今度こそあの娘はそれを受け取った。今しがたのように頬を赤くしながら、それでもどこか違った雰囲気で。
「ありがとうございます……大切にします、バラダスさん」
そしてあの娘は私がしていたのと同じ指にそれを通すと、何かを決意したような表情で私の前に一歩踏み出し、引き込まれそうな感情が揺らめく瞳でこちらをしかと見つめた。ほんの僅か視線が交錯し、私はその甘美さに魅入られる。しかしあの娘はそれだけに留まらず、微かに踵を浮かせると私の頬にその唇で触れ、そのまま目を合わせることなく足早に塔から去っていった。
感謝を表す印としてそんなものはありふれていると言うのに、私は確かにそれを喜んだ。それどころか、児戯のような触れ合いに留まったことを惜しいとさえ思っていたのだ。その時の私は、もはやあの娘を単なる魔術師として見てはいなかった。数え切れないほどの日々を傍らで過ごしたオートマトンを差し出しても構わないと思うほど、あの娘を誰とも違う存在として認識していた。端的に言うならば、惹かれていた。それは男が女を求めるように、私はあの娘を――アルマを、欲していた。
天地が逆転しようとも、その逆など起こり得るはずもないことはわかっていた。そもそもあの娘が何のために私の元を訪れるのかさえ、どうにも見当がつかないでいた。だがテルヴァンニの者は大半がヴァーデンフェルの東に居を構えている中、今なおその家風に染まり切らぬあの娘が、ひと時の慰めを求めて西の端までやって来ているのであれば、私はこの許されざる慕情を自身の奥深くにしまい込んででも、あの娘がそう望む限りこの塔への出入りを拒むつもりはなかった。
それでも時折頭をよぎる、あの娘の声やふとした仕草。見返りなど元より求められるはずもない歪んだ思慕とは思いつつも、焦がれる姿を思い描かぬことなど私とて不可能だ。若いブレトンの女に懸想するダンマーの老いた男など、例え世間に知られたところでもはや嘲笑されもしないだろうが、あの娘にもし一度でも私のこの手で触れることが叶うなら。あの娘がかき立てたこの炎の熱を共有することができるなら。それが例え禁忌に等しい行いだと理解できていたところで、あの娘が私にその手を伸ばしたならば、縋りつかずにいることなどできはしまい。
……そう、できはしなかったのだ……。
「最近はなかなか練習する時間がなくて。あまり不出来なものをお聞かせするのも心苦しいのですが」
「何を言う。お前は器用なものだ、以前よりも上達したのではないか」
もう何度もそうしていたように、私はその夜もあの娘と食事を共にした。しばし杯を干した後であの娘が愛用のリュートを爪弾き始め、その音色に私が心地良く酔い痴れた頃、いつしか隣り合って腰かけていた私たちの間にあったはずの空間はなくなっていた。一言、二言と言葉を交わし、あの娘の身体がそっと私の隣に寄り添ってきた時、私はそれを拒みはしなかった。あろうことか私はこの腕を伸ばし、あの娘の肩を抱きさえしたのだ。それは恐ろしいほど自然な行為だった。あの時の私が、頭で考え意志を持ってそうしたのか未だに判断がつかぬほど。
「……バラダスさん……」
あの娘はそれに逆らわず、熱を孕んだ声で私の名を囁いた。楽器を傍らに置いた腕がおずおずと私の背に回り、甘えるように身を寄せてくる。それを抱き寄せずにいられぬほどには私も酔っていたのだろうか。否、例え一滴の酒すら口にせずとも私は同じことをしていただろう。
「バラダスさん、私……」
あの娘は顔を上げると、いつかと同じように私を見た。両の瞳いっぱいに私を映し、何かを懇願するように見つめる。哀しさとも、寂しさとも取れる何かがあの娘の表情に微かな影を落とし、私は自分の中の何かが発する警告にももはや気づかない。これ以上は、踏み込みすぎる。だが例えそれを自覚できていたところで、もはや全ては遅きに失していた。留まらなければならない場所から既に大きく道は外れ、物事は動き出してしまっていたのだから。
「……!」
そっと目を伏せたあの娘の唇が私のそれに重なる。一度解かれた腕は再び首元に回り、二度、三度と触れ合わせるだけの口づけが続く。私は何をも求めぬつもりだった。ただもしあの娘が何かを望むなら、それには応えてやりたいと願っていた。だからこれはその道理に適っているのだと自分自身を納得させながら、私は自ら抱きしめたあの娘により深い接吻を贈った。
「ん……ぅ、ん」
だんだんと激しさを増す口づけの合間に零れ落ちる甘い声。私の乏しい想像力を遥かに凌駕する誘惑を備えたそれは、引き返すべき時があったところでそれに気づくための理性をも溶かしてしまう。あの娘は私を拒まず、私がそうしたように返してくる。どんな蜜よりもなお甘い、触れてはならぬ女の舌先。俗世間との関わりを絶って短くはない私のような者でさえ、それに溺れずいることなどとてもできはしない。
そしてようやく長い接吻を終えてあの娘が再度私を見つめた時、私は決して望んではならぬと自身に繰り返し戒めた言葉を聞いた。
「あなたを愛しています」
そう呼ぶ想いが本当に愛そのものなのか知っている者など世には少ない。このように若い女ならば、それを知らずとも何もおかしくはないだろう。一時の気の迷い、あるいは寂しさを埋めるための若気の至り。いずれそう遠からぬ時にこの夜の出来事をあの娘は後悔する、無論その程度の予測はついていた。私のように遥か年長の、同族でもない半ば隠遁した魔術師を相手に、あの娘が告げた言葉は聞いてはならぬ類のものだった。幻の希望を私に持たせ、毒のようにこの老いた身を蝕む、解けぬ呪いのような甘い睦言。
「ずっとあなたを想っていました。バラダスさん、あなたのことを愛していたんです」
震える腕で私を抱きしめ、あの娘は秘密を打ち明ける。その身に触れたままの己の手が酷く熱い。
「バラダスさん……!」
切なげな表情のままあの娘はもう一度私に口づけた。心の臓が一つ鼓動を打つ度に、老いた身の隅々まで欲情が駆け巡る。私の手はあの娘の身体の線を辿るようにやんわりとさまよい、もはやそれを止めることもできない。
もし、この秘めたる願いが叶うなら。現実にはあり得ぬことと目を背けていた想いが満たされるなら。そんな千載一遇の好機はきっとその瞬間でしかなかったのだ。
「アルマ、私は……私も、お前を」
「バラダスさん」
「私もお前を好いている。恐らくは、お前と同じようにではないだろうが」
見る間にあの娘の目には涙が滲んだが、それは今まで目にしたどんな涙とも違っていた。喜びの涙を零しながら、あの娘は私の手を取り頬を寄せた。拙い愛の言葉を繰り返した。私を、バラダス・デムネヴァンニを一人の男として愛していると。
そして私は望まれるがままにあの娘をベッドの上へと横たえ、その身に纏ったローブを床に落とし、柔らかい肌へと愛撫を施すと、あの娘の身体を我がものとした。他のことなど何も考えられはしなかった。ただ目の前のあの娘が欲しかった。あの娘にこの手の経験がないと、生娘の身であることに気づいても、濡れたまなざしで懇願されれば抗うことなどできなかった。あの娘の身体は温かく、私を包み込み、果てさせた。これまでの長い年月で得た充足感のどれとも違う圧倒的な幸福が、私の全てを満たしていた。
