その日アルヴス・ドレレンに着くなり、私はバラダスさんに顔色が悪いと言われた。確かにここ最近きちんと寝られているとは言い難かったけれど、自分が見た目にわかるほど不健康な有り様をしていて、かつそんな姿を一番見られたくない相手から指摘されると言うことに、やはり多少なりともショックを受けずにはいられなかった。
「そ、そんなに具合が悪そうに見えますか」
「見えんならわざわざ指摘などせん。外をうろつく時に聖堂で祈れとでも言われたくなくば、手遅れにならんうちにそこの寝台で一眠りしておくことだ」
「……でも、私には時間が……っ⁉︎」
返事を言い淀んだ私に、バラダスさんはおもむろに片手を伸ばす。そしてその手に幻惑術特有の淡い光が宿ったと思った瞬間、私の身体は硬直し、お手本のように見事な麻痺術をかけられたことがわかった。
「あまり手間をかけさせるな、私が休めと言ったならば従え。ここが私の支配する塔であるということを忘れてもらっては困る」
「う……」
敵対的な魔術に耐性の強いブレトンである私に、かろうじて口を利けて瞬きができる程度の麻痺術を一瞬でかけるなんて、その繊細な技術には改めて惚れ惚れしてしまう……とは言え。
「わっ⁉︎ バ、バラダスさん⁉︎」
動かせない私の身体をバラダスさんはいとも簡単に抱き上げ、部屋の端にあるベッドに向かって迷いなく足を進める。いくら骨格がしっかりしたタイプであるとは言っても、実年齢を考えれば壮健なんて言葉ではとても足りない。
「お、降ろしてください。大丈夫です。ちゃんと後で下で寝ますから……っ!」
「客間で休むと言っておきながらそのまま出て行く常習犯が何を言う。私がお前の所業に気づいておらんとでも思ったか、アルマ」
「どうしてそれを……っもしかして、様子を見に来てくださったということですか?」
「!」
ほんの一瞬バラダスさんの足が止まりかけ、また何事もなかったかのように歩き出す。これはつまりイエスということだ。もちろん問い質せば否定されるに違いないけれど。
「……それがそんなに大事か。お前の言うところの使命とやらが」
私をベッドの上に横たえ、見下ろしながら老魔術師が呟く。初めて会った時のような無関心で冷たいまなざしではなく、ほんの少しの憂いと心配を秘めた視線を私に注ぎながら。
「アルマ、お前は生き急ぎすぎる。ネレヴァリンの預言とやらを成就させることにかくも駆り立てられ、結果お前の身が保たぬことにでもなれば愚かでは済まされんぞ」
私が無理を押してでも東へ西へと奔走しているのは、今バラダスさんが言った通りネレヴァリンとしての使命を果たそうとしているからだ。いくつもの試練を乗り越え、敵と戦い、謎を解き、大家と部族の間を行き来しながら自分の能力を証明する──口で言うのは簡単だけれど、それを成し遂げようとすれば身体がいくつあっても足りない気分になることもある。
けれど……。
「大事と言うと少し違うような気もしますが……私は嫌いなんです、自分のやりたいことの邪魔をされるのが」
「ほう?」
「嫌なんですよ。本当は別にしたいことがあるのに、だらだらと違うことに限りある時間を奪われてしまうのは」
寝台のすぐ傍で私の言葉を待っている相手を見上げながら、私は苦笑いとしか言えないだろう顔で続ける。
「ダゴス・ウルを倒さない限り、私の時間の全てをここであなたと過ごすことに充てられません。もちろん外で何が起きようと気にしないということもできないわけではありませんが、食料が届かなくなるだとか、グニシスの町が襲撃されるだとか、そんなことにいちいち頭を悩まされたくないんです」
救世主とはきっと崇高で、数多の人々のために困難に立ち向かう勇気のある人のことを言うのだろう。けれど私は自分勝手で、誰かのために命懸けの戦いに赴くことなんてできそうにない。私にできることはただ、自分の敵を倒すことだけ。私の邪魔をする相手を、悩みと共に消してしまうことだけなのだ。
そのために必要なことならば努力を惜しむつもりはないけれど、必要最低限かつ十分な時間で済ませたいと思ってしまう性格まではなかなか変えられない。もっとも、それが原因でこうして歳の離れた恋人から怒られているわけなのだけれど。
「目の前に立ちはだかる者は誰であろうと殲滅する……か。なるほど、確かにお前は我らテルヴァンニの一員となる十分な素質がある」
バラダスさんは眉間に皺を刻んで苦笑しながらも、私の答えがお気に召さなかったというわけではないらしい。
いかに生き急いでいると揶揄されようと、私にはマーのように悠長に過ごせるだけの寿命がない。愛する人と一分でも一秒でも長く一緒にいたいのなら、後顧の憂いなんて綺麗さっぱり頭の中から消してしまって、残りの時間はできるだけその人のことだけを考えて生きていきたいのだ。
生きていれば悩みなんていくらでも出てくるということはわかっていても、当面の不安が解消される手段があるなら講じないという手もないだろう。特に、それを行使できるのが世界に私一人なのだとすれば。
「死の山を統べる悪鬼との戦いも、お前にとっては“そんなこと”に過ぎんか。トリビュナルも舌を巻こうな、小生意気なよそ者娘の戯言がこうも小気味良く聞こえるとは」
「……っ!」
そう言ったバラダスさんの骨張った手に頭をそっと撫でられて、長らく張り詰めていた緊張の糸がふっと緩みそうになる。ここで甘えたら足が鈍ると自分でわかっているからこそ、毎回後ろ髪を引かれる思いでアルヴス・ドレレンを離れていたのに、こんな風に優しくされてしまうと寄りかかりたくなってしまう。
私だって本当はとても恐い。もう会えなくなってしまうかもしれないのに、今こうして一緒にいる時間を削るのは果たして正しいことなのだろうか? レッドマウンテンにたどり着くまでのどこかで命を落としてしまうことだって絶対にないとは言い切れないのに、その時私はもっと側で過ごしていれば良かったと後悔しないと言えるだろうか?
その問いに答えが出せるのはきっと全てが終わった後になるだろう。けれど、それでも前に足を踏み出し続けられる理由もまた、この人の側にいたいという強い想いでしかないのだ。
「アルマ、お前の動機に異論があるとまでは言わん。だがお前は私に比べれば所詮駆け出しの魔術師、自らの力を過信し過ぎるな。疲れておらんのならこんなにもすぐに眠気に負けることもなかろう」
「そ……ん、な……」
必死に目を開けているつもりでも、バラダスさんの低い声を聞いているといつしか瞼が閉じてしまう。睡眠の魔術でもかけられたのかと訝しみもしたけれど、残念ながらバラダスさんにそんな素振りは見えなかった。
「眠る、のは……嫌です。せっかく……あなたと……バラダスさんと、一緒に……いら、れ……」
あまり側にいられないからこそ、こんなことでその時間を無駄にしたくはない。それでも私が何の不安もなく心から安らいで休めるのも、バラダスさんの側にいられる時だけだというのは何とも皮肉なものだ。
「……全く強情を張りおって。せめて私の前では素直に甘えておればよいものを……」
その優しい囁きを聞きながら、私はどんな悪夢も入り込む隙のない幸福の中でゆっくりと意識を手離した。
