「ハン・アンムよ」
「はい、何でしょうマニライさん」
「お前に嫁を取ることにした」
「……は……?」
「これから顔合わせだ、グアーの世話で汚れた服くらい着替えておけ」
「ち、ちょっと待ってください! え⁉︎ 何ですか⁉︎ 嫁⁉︎ 僕が⁉︎」
「落ち着け。意味がわからんぞ」
「意味がわからないのは僕の方ですよ!」
いつも通りヤントゥスとグアーの放牧に出て、日が暮れる前に帰ってきたら、世間話でもするかのような調子で僕はマニライさんにヤートの前でそう言われた。あまりに突然のことで何を言われているのか正直よくわからなかったけれど、聞こえた言葉が間違っていないなら賢女は僕に見合いをさせるつもりらしい。
「いくら賢女のマニライさんの助言とは言えさすがに唐突すぎますって! そもそも一体何で急にそんなこと……」
「急にも何もあるものか。お前も今やエラベニムスンのアッシュカーン、嫁の一人や二人おらずにどうする」
「勘弁してくださいよ。アッシュカーンって言ったって、ついこの間なったばかりじゃないですか」
「ついこの間? そうだな。アルマがネレヴァリンとなり悪魔を打ち倒して偽の神々を追放せしめ、もはやそれからしばらく経つくらいにはつい最近のことか」
「……すみませんでした」
言葉尻を捕らえられて劣勢になった僕は素直に賢女に頭を下げる。けれど心が黒檀の鉱石のように重く感じるのは、ただ見合いが憂鬱だからという単純な理由だけじゃない。僕は今名前が挙がったネレヴァリンが──アルマさんのことが、好きだったから。
「まあ……その、結婚とかそういうことはおいおいちゃんと考えますから。だから申し訳ないですけど相手の方には断っていただいて」
「遅かったな。もう私のヤートで準備している」
「早すぎるでしょう⁉︎ お願いですから何もしないでくださいよ! 僕だって──」
そこで僕ははたと口を閉じる。僕だって、心に決めた大切な人くらいいる。絶対に振り向いてもらえないことなんてわかっているし、できれば一番知られたくなかった情けない姿は初対面の時から見られている。アッシュカーンという責任ある立場を引き受けた以上、いつまでも独り身ではいられないことも頭では理解しているけれど、それでも今はアルマさん以外の誰のこともそんな風に見ることなんてできない。
あの日、ウラス・パルたちの恐怖からエラベニムスンを解放してくれたアルマさん。ヤートの隅で縮こまっていた僕の人生を変えてくれたその人が、僕ならできると言ってくれた時から他の誰にも僕の胸は高鳴らない。
「お前だって何だと言うのだ。言いたいことがあるのならはっきり言ったらどうだ」
「…………」
「そうやってクワマの潰れたような性格をしておるから自力では女の一人も捕まえられんのだ。元よりアッシュランダーの女はそんな弱々しい男に興味などないぞ」
「っマニライさん、いくら何でもそんな言い方──」
「だからお前にはそれ以外の女を娶せることにしたのだ」
「……えっ?」
「ハン・アンムの用意ができておらんがもうよかろう。出てきてくれ」
「はい」
本当のことを辛辣な物言いでマニライさんに指摘されて、さすがに憤った僕はどうにか言い返そうとしていたはずだった。なのにその声が聞こえた瞬間、僕の怒りは一瞬で消し飛んでしまった。
嘘だ。まさか。そんなはずない。だってあの人は今日ここに来るなんて一言も──。
「お……お久しぶりです、ハン・アンムさん」
あまりにも会いたいと思ってばかりだったからかついに幻覚が見えてきた。マニライさんのヤートから出てきたのはエラベニムスンの民族衣装を身に纏ったアルマさんで、アウトランダーなのにびっくりするほどその服がよく似合っている。まるで最初からこの集落で暮らすことが運命づけられていたみたいに。
「アッシュランダーの女は皆強く勇気ある男を好む。街に住むダンマーの女は賢い男を好む。だがこのよそ者の女はそれらのどれも必要ではないらしい。まあ、お前にはその三つがあると考えているようではあるがな」
マニライさんがどこか誇らしげに何か言ってはいるけれど、僕の耳にはもう何も聞こえなかった。ただ目の前に立っているアルマさんとお互いに見つめ合う。ずっと会いたかった、でももう会うこともないんだろうと諦めていた憧れの人と。
「……嫌でしたら断っていただいても構わないんですよ」
「!」
何も言わず黙ったまま立ち竦んでいる僕に、アルマさんが申し訳なさそうな顔で小さくそう呟く。その言葉ではっと我に返った僕は弾かれたように彼女の手を握ると、精一杯の勇気を振り絞って想いを伝える。
「っアルマさん!」
「はい」
「ぼ、僕でよければ! どうかこれからも一緒にいさせてください!」
「……はい!」
不安げだったアルマさんの表情が、その瞬間とろけるような微笑みに変わる。それに思わずくらりとしかけた僕の意識を引き戻したのは、隣でやれやれと言わんばかりにため息をついたマニライさんだ。
「そこは〝一緒にいてくれ〟だろうに……馬鹿者」
「マニライさん⁉︎ そういう講評はもっと後にしてくれません⁉︎」
結局こんな風にどこまでも格好がつかない僕だけど、それでもアルマさんが隣でこうして笑っていてくれる。だから僕は一見突飛でも賢女の忠告にはきちんと耳を傾けようと心に誓った。強く、賢く、勇気あるアッシュカーンに少しでも近づいて、大切な人の笑顔をこれからもずっと守っていけるように。
