「ネロスさん」
「…………」
「ネロスさん、ちょっとお伺いしたいことが」
「…………」
「ネロスさん? まだボケるには早いでしょう、いくらあなたが数百歳を超えていても」
「口を慎め。私はテルヴァンニのマスター・ウィザードなのだぞ」
目を開けたまま眠っていたのではないかと思われる大魔術師は、そこでやっと不機嫌そうにそう言うと鋭い視線をこちらに送る。
「私が集中しているのがわからんのか? この偉大な頭脳の働きに余計な茶々を入れないでもらいたい」
「そうできれば私も助かりますが、これもネロスさんの自業自得です。この前あなたがどんな惨事を引き起こしたかもう忘れたんですか」
先日マスター・ネロスは呪文の失敗で危うく塔を半壊させるところだった。その原因が他でもない本人の書いたメモの字が汚すぎたが故のセルフ誤読だったために、さすがの大魔術師様も表立って他人に八つ当たりをすることはない。
……けれど。
「惨事? 何の話だ。私が司る我が塔で物事がうまくいっていないとすれば、そういう事態を収集させるためにアルマ、お前がいるのだろうが。タダ飯食らいを置いておくほど私は鷹揚ではないぞ」
「ぐ……!」
何というわがまま、横暴、傲岸不遜で自己中心的な態度。確かにテル・ミスリンの所有者はネロスさんであり、極論本人は何をしてもいいのかもしれない。とは言え、今なお隙間風と言うには強く吹きつけすぎる灰混じりの外気が入ってくる大穴を、あたかもそれが普通かのようにスルーして何もなかったことにしようとしているのはいかがなものか。昨日なんてその大破した壁からスクロールがいくつか飛んでいってしまった上、住民総出で周囲の捜索に駆り出される羽目になったと言うのに。
「それで? 私の邪魔をするほど重要かつ急を要する話があるのだろうな?」
「え……ええ、はい」
腕を組んで凄む相手の態度に内心で深いため息をつきながら、私は同じような不慮の事故を避けるために清書を要するマスター・ネロスの書き付けを並べる。
「昨日お話しした通り、今日こそはこの紙の束を片付けましょう。確認なんですが、この字はcですか? それともeですか?」
「んんん?」
「あとここで同じ言葉が二回繰り返されているのは本当に正しいんでしょうか? それとこの部分の順序が──」
「面倒だな。そのくらい説明されなくても自ら理解しろ」
「一目で理解できるように書いてくださるのならいちいちこうしてお尋ねしません」
「む……」
一瞬押し黙りはしたけれど、ネロスさんは渋々と言った様子で一つずつ指図をしていく。でもたまに若干考え込んでいるように見える時があるということは、やはり自分でも悪筆すぎてよくわかっていない部分があるということなのだろうか。
ちょっとした生活上の呪文ならともかく、テルヴァンニ家のマスター・ウィザードクラスが使う魔術となると威力も尋常ではなくなってくる。その術式に誤りがあれば文字通り洒落にならない。何だか魔術師の助手と言うよりは暗号解読者になったような気がしなくもないけれど、命に関わることだと思えばこんな作業も真剣に取り組まざるを得ないだろう。
ネロスさんの側にいるようになってからもうしばらく経っているとは言え、私もまた顔面触手人間になるような事態は御免被りたい。呪文の文言は常に正しく、間違いのないようにありたいものだ。
「ではここは『塵よ我に仕えよ』で……あれ、塵ですか? 灰ではなく?」
「特定のものを燃やした際に生じる塵灰のみを魔術の媒介とするのだ。レッドマウンテンが吐き出すような自然の灰とは区別する。全く、そんなことも知らんとは」
こちらの弱みを見つけたとでも言わんばかりの意地の悪い笑みを浮かべながら、マスター・ネロスは何とも楽しそうに私にそう言った。
アルケインの術の扱いを生業としている身としては、ネロスさんの物言いを度外視すれば内容はとても勉強になる。スカイリムではほとんど目にしたことのない体系の付呪や、何の分野に分類されるのかもわからないような奇妙な呪文まで、このダンマーのウィザードが操る術は実に膨大で果てしない。こんな時、モロウィンド最強の魔術師の二つ名は決して出まかせではないことを思い知らされる。テルヴァンニの魔術師の元で学ぶということがこんなにも発見に満ちているのなら、多少の心身の健康を犠牲にするのもやむなしと言えるかもしれない。
もっとも、テルヴァンニ家に所属するということがこんなレベルの知識と能力を常に求められ続けるということを意味するのなら、ブレリナさんのようにどこか遠くへ行ってしまいたいと思う人がいても全く不思議だとは思わないけれど。
「……『神の名に於いて』、と。終わりました。ありがとうございます」
「やっとか。これで我が高尚な思考実験に戻れるというわけだ」
「お手数をおかけしました」
「全くだ。おっと、その紙切れを綴じたら私に茶を持ってくるのを忘れるな」
「はい」
手早く紙の束を綴り、お茶を用意するために塔の下へと降りると、ちょうどレイヴン・ロックに買い出しに行っていたタルヴァス君が戻ってきたのと鉢合わせる。お湯を沸かしている間に不在の間の塔の中の話を手短に伝えれば、魔術師の弟子は赤い目を丸くしながら改めて私を見た。
「……マスターが? 大人しく清書に協力?」
「大人しかったかどうかは非常に疑問の残るところではありますが、この間まで溜まっていた分は先ほど全て終わりましたよ」
「信じられない!」
タルヴァス君は何とも不満げな顔でそう言ったけれど、それだけではまだ足りないらしい。
「アルマさんが来る前は、僕が呪文書にする分だけ清書していた話はしましたよね。でも結局あれこれ罵倒されるわ途中で放り出されるわで全然まともに進まなくて、大部分は僕が自力で解読しなきゃいけなくてとんでもない手間だったんですよ。だからアッシュスポーン事件なんて起こすことになったんだ。なのに……」
〝アルマさんだけ不公平だ〟なんてタルヴァス君は呟いていたけれど、そこではっと目を見開くとニヤリと妙な笑みを浮かべた。
「わかった。だから僕に買い出しに行けって言ったんだ。マスターも人が悪い」
「え?」
「順番で行くと今回はアルマさんが買い出し当番だったじゃないですか。なのにマスター・ネロスは僕が行けってわざわざ命じてきたんです。これはもうお気に入りのあなたと二人きりになりたいとかそういう魂胆があったとしか思えません」
「なっ……⁉︎」
今度ぎょっとするのは私の番で、突然妙なことを言い出したテルヴァンニの魔術師の顔をまじまじと眺めずにはいられない。ネロスさんの近くにいすぎてタルヴァス君も頭がおかしくなってしまったのだろうか?
「アルマさんも知ってるでしょう。マスターがダンマー以外の人をここに住まわせるなんて特例中の特例ですし、何だかんだと理由をつけてあなたにちょっかいを出さずにはいられないことくらい」
「いや、ちょっ、何か激しい誤解が──」
「あ、もうお湯が沸いてますよ」
「!」
そう指摘されるなり反射的にカニスの根のお茶を淹れてしまう我が身が哀しいけれど、今はタルヴァス君の言葉に緩んでしまいそうな顔を引き締めておくだけで精一杯だ。
どうせネロスさんがそんなことを考えているはずがないということは私にもわかっている。それでもこうして過酷な下働きに甘んじていられるのは、魔術の知識を得られる以外の利点があるからに他ならない。すなわち、あのエキセントリックが過ぎる大魔術師様の一番近くにいられるということ。あの人の側にいれば一生退屈しないと、私の直感はそう言っている。
マスター・ネロスの奇想天外な言動をおもしろいかもしれないと思ってしまった時から、テル・ミスリンでの毎日は一日一日があまりにも鮮烈だ。喜怒哀楽の全てを極限まで使い果たしているような、自分が生きているということをこれ以上なく実感できるような、ある意味で充実した日々を過ごしていると断言できるのは、タムリエル広しと言えどもネロスさんと一緒にいる時だけなのだから。
「ほらほら、早くそのお茶を持ってマスターのところへ戻ってあげてください」
ニヤニヤしながらそう言うタルヴァス君の声に背を押され、私はそろそろ苛立ち始めそうな塔の主の元へと向かう。買い出しから戻ってきた弟子はキッチンでサボっていますよと、告げ口をするくらいは意趣返しとして許されるだろうと考えながら。
