この混沌とした世の中に、再びネレヴァリンを名乗る者が現れた。しかし折々の時代にその称号を冠された傑物は皆等しく現れては消え、御伽噺めいたアズラの預言が最後まで成就したことは一度もない。
それは今回もまた同じだろう。例えどんなにトリビュナルの守護の力が衰えていようとも、忘れ去られし第六の大家の脅威がすぐそこまで迫っていようとも、ネレヴァリンと呼ばれし者が誰よりも清廉な魂を持った人物であろうとも……。
「全く何たる失態! ネレヴァリンを名乗る異端者が、よりにもよって聖堂の中から現れるとは!」
ベレル・サラはただでさえ赤いダンマーの目をさらに血走らせ、私の執務室に入ってくるなり唸るようにそう声を上げた。
「ソラー・サリョニ、総大司教よ。一体どんな申し開きをするつもりだ? 聖堂の忠実な信奉者たちは誰一人納得などできんぞ。お前が連れて来たアウトランダーはとんだ食わせ者だ、すっかり騙されたわ」
憤りをぶつけるように拳で私の机を叩いたサラを、部屋の先客として佇んでいたトゥルス・ヴァレンが嗜める。
「口を慎め、異端者狩り。その男は総大司教だ……少なくとも今はまだ、な」
「何だ、ヴァレン。アルドルーンからわざわざ執務室の下見か。次にここに座るのはお前だと、今度こそヴィヴェク卿に直訴でもするつもりか?」
「どうとでも好きに言え」
自室で独り静かに思い悩むことも許されず、黙り込む私の前で二人の高位聖職者同士が睨み合う。あるいはこうして嘆く暇さえない方がありがたいのだろうか。決して望んではならない願いに思いを巡らせずにいるためにも。
そんな私に向き直り、些か好戦的な聖戦の統率者は改めて口火を切る。
「サリョニ、確かに今はまだお前こそが聖堂の総大司教だ。ならばなぜ私がここに来たか、理由がわからないわけではないだろう」
「……それは……」
「さあ、はっきりと命を下せ。オーディネーターはトリビュナルの威信を揺るがす者を決して許さん」
異教の者だというだけなら許される。現にこのヴァーデンフェルでも、九大神聖堂の布教活動が禁止されているわけではない。またアッシュランダーたちが古からの部族のしきたりに従い、祖先やデイドラの類を奉ることも表立った摘発の対象ではなかった。
しかし、もし三大神の滅びをもたらすと預言された者が現れたら。荒野に住まう灰の民が語り継いできた伝説の中に、トリビュナル聖堂が禁じた書物の中に記されていたその者の名を、チャイマーの英雄たる大将軍の再来として名乗る者が現れたならば。
そんな日が訪れたならば、神の第一の側仕えとして私が下さねばならない命は一つしかなかった。
「……オーディネーターを束ねし者、ベレル・サラに告ぐ」
喉が渇き、背を汗が流れる。机の上で手を組んだところで、指先の震えを止めることはできない。静まり返った部屋の中の、その沈黙で耳が劈かれてしまいそうだ。
「あの者を……」
この先に続く言葉を口にしたくはない。だがそう考えることそのものが、神に対する何よりの背信だと総大司教たる私は知っている。
「ネレヴァリンを名乗る者──かつての司祭、アルマを捕らえよ。生きて捕らえたならば異端審問にかけた上で死罪に処し、死して捕らえたならばその死を以って異端の信教の否定とする」
「承知。ならば今すぐに精鋭を差し向けよう」
まるで血に飢えた獣が美味なる肉を目の前にしたような顔で、サラは慌ただしい足音を響かせ急ぎ部屋から去っていく。途端に自分の身体がひどく重くなったかのように感じられ、苦しい呼吸を和らげたくとも息が吸えている気がしない。そんな私と共に残ったヴァレンは一つ小さく鼻を鳴らすと、椅子から立ち上がれそうにもない私を見下ろして口を開いた。
「実にいい様だな、サリョニ。お前の犬はなかなかの手練れだったが、さしもの大司教も飼い犬に手を噛まれたか」
アルマを指してあのアウトランダーはソラー・サリョニの犬だなどと、口さがなく罵る者たちがいたことは私とて知っていた。そんな噂が聞こえてくる度に都度注意をするようにはしていたが、他ならぬアルマ本人が構わないと言って笑っていたことを思い出す。
『サリョニ様の教えに忠実に振る舞っているからこそそう呼ばれているのなら、私にとってはむしろ光栄なことです』
行き倒れていたところを偶然救った私への恩義から、アルマは聖堂の者となり三大神信仰の道を歩んできた。並外れた回復術を用いて多くの傷病者の治癒に努め、卓越した召喚術で神敵ダゴスの先兵たちを打ち破ったその者は、私が知る中で最も優れた神の使いだったと言っていい。
──それが、なぜ。
「さぞや悔しかろう。これまでお前にあれだけ目をかけられていたというのに、あの女はお前に何も言わずここから姿を消したそうではないか」
「…………」
初めて不穏な噂を耳にした時は、またしてもアルマをやっかむ者たちの虚言と信じて気にも留めなかった。信頼できる筋からの情報にその者の名が挙がってきた時も、帝国のスパイとしての活動に従事しているという一報がもたらされた時も、私はまだアルマを信じていた。
なぜならあの者は私といる時、常に真実を語ってくれていたからだ。その目にも、その言葉にも、いつもアルマの正しき心が宿っていた。それを疑うことなど誰一人として考えられもしないほど、あの者は神の教えをいついかなる時も忠実に守っていた。
故にアルマがネレヴァリンと呼ばれていることを認めざるを得なくなった時、私は激しく憤った。だがそれはトリビュナルに背を向けたかつての司祭への怒りではない。かくも大きな秘密を抱え、誰にも言えずに怯えていたであろうその者の苦しみを、こんなにも近くにいながら気づけなかった自分自身に対し、身が焼かれそうなほどに強く深い悔恨の念を抱いた。
「無様なことだ、総大司教。信徒に祈りを教え司る者の長という肩書きを名乗っていながら、今のお前は誰に何を祈ればいいのか知らんとでも言わんばかりの腑抜け面だな」
「ヴァレン、悪いが独りにしてはくれまいか。少し……時間が欲しい」
「ああ、構わんぞ。だが最後に一つお前に問おう」
数日来すり減らしてきた神経がいよいよ限界に達し、いつもなら聞き流せるヴァレンの棘のある言葉にも心が血を流す。しかしアルドルーンの大司教は私の目を覗き込むようにその身を乗り出しながら、皮肉げに顔を歪めて極めて危険な問いを投げかけた。
「お前の犬はお前を信じていた。神よりもなおお前を信じていた。よもやそれを知らなかったわけではあるまい?」
「一体何が言いたいのだ」
「お前は奴を信じないのか」
「!」
「奴は恐らく今もお前を信じている。ならばお前は奴を最後まで信じてはやらないのか。もしお前の忠犬が……アルマというあのアウトランダーの女が、真実のネレヴァリンだとしたら。その可能性をお前は信じてやらないのかと聞いている」
「なっ……!」
トリビュナル聖堂は邪悪なネレヴァリン信仰を長らく熾烈に弾圧してきた。それはいつの日か現れるという伝説の英雄の生まれ変わりが、モロウィンドの守護者たる生けし神々を滅ぼす運命にあると語られているからだ。永遠の守護者を失う時、必ずや我々ダンマーもこれまでの栄光を失う。三大神を信じ敬うことでしか我らは繁栄できないのだと、聖堂が民に説くのはまさにそれが理由に他ならない。
ネレヴァリンはダゴス・ウルを倒す者と伝えられていても、トリビュナルが同じ偉業を果たせないはずがあろうか。確かに三つの神器のうち二つは敵に奪われ、レッドマウンテンからの撤退を余儀なくされた過去はあったが、神の力に翳りがあるとすればそれは信仰の力が弱まっていたからだ。神への祈りがあればこそトリビュナルは再び比類なき力を取り戻す。揺らいではならない。疑ってはならない。ましてや、ネレヴァリンの存在を信じるなど。
……だが真実は恐らく違うということに、私は薄々気づいている。神の力の出所は完全に民の信仰心に依るものではなく、神敵の用いるそれと極めて近しい性質のものなのではないかと。トリビュナルへの信頼を失えば自らの首を絞めることになるとわかっていても、もたらされない救いに疲れ果てた民はネレヴァリンに一縷の望みを託すしかないのだと。
さりとてそれを口にすることなどとても許されるはずがない。だからこそ大司教という立場のヴァレンがこんな発言をしたことに、私は誰もいないとわかっていても周囲を見回さずにはいられなかった。
「そなたはまさか……信じているのか⁉︎ アズラの勇者の伝説を」
「口を慎め、サリョニ。私はトリビュナルに仕えし名誉あるアルドルーンの大司教だぞ。いかにお前が総大司教であろうと、それ以上の侮辱をされる謂れはない」
ヴァレンは清廉と言うには後ろ暗い噂が付き纏っているが、司祭としての力は確かなもので、神への信仰と献身もまた本物だ。それは若い頃から共に修行を積んできた身として他の誰よりもよく知っている。
ならばなぜそんなことを尋ねるのかという私の困惑を見て取ったのだろう、ヴァレンはサラのように拳を握ると狂信的な口調で言った。
「サリョニ、お前が総大司教でいたいのならばあのアルマという破門者を断罪しろ。異端者は惨たらしく殺せ。二度とそんな世迷言を信じる民がこの世に現れぬように、見せしめとしてその首を刎ね死体を街の中に晒すのだ」
「……!」
「だがお前にまだソラー・サリョニという一人の男としての矜持が残っているのなら……」
そこで幾分か声を落とし、アルドルーンの司教は常と同じく皮肉げにその目を細める。
「いくら追撃の追手を放とうと、奴は決して死なんと信じてやれ」
「!」
「真のネレヴァリンは聖堂の聖戦士たちに討たれる運命に在らず、生きてその使命を全うすると灰の蛮族どもは言う。もし奴が本当に追っ手に捕まらず、このまま三大家と四部族の全てに勇者と認められるようなことがあれば──」
それは馬鹿げた妄想で、現実になることなどあり得ないと長い間思われていた。しかし我らは〝その先〟を考えなければいけない時を迎えている。
大家をまとめしホーテイター、部族を率いしネレヴァリンの全てを冠する者が現れたら。この地に生きる人々の想いを恩讐を越えて一つに繋ぐ、ネレヴァルと同じ奇跡を時を超えて起こす者が現れたら。
「その時はお前が神の第一の代理人として、奴をこのヴィヴェク卿の宮へ招いてやらねばならなくなるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、確かに私の胸は打ち震えた。暗闇に差し込む一条の光のように、絶望の中に希望が生まれた。それは聖堂の大司教が決して抱いてはならない考えではあったが、私にとっては何よりも強く望むただ一つの願いだった。
私はアルマを愛していた。持てる限りの敬意と真心を捧げて密かに想っていた。だからこそ生き延びてほしい。それを願うことがどんなに重い罪であろうと、あの者に死んでほしくはない。アルマの無事を、幸福を、ただ遠くから祈らせてほしい。それ以上は何も望まない。もはや二度と相見えることは叶わなくとも、せめてこの世界のどこかで生きていてさえくれたなら。
ソラー・サリョニとしての私にできることは、もはやそれだけしかないのだから。
「ヴァレン」
「何だ」
「なぜ……そなたは私にそんなことを?」
我が友、優秀な同僚にして力強く己が信ずる道を征く聖職者、トゥルス・ヴァレンは悲しいことに私を好いてくれているわけではない。それでいてこんな風に発破をかけるような言葉をくれたのは、私が情けをかけるべき迷いし者だと見做されたからなのだろう。その予想を肯定するかのように、誇り高き大司教は口角を上げる。
「単純なことだ。あのよそ者の運命がどちらに転ぼうと、お前の責任追及は免れんからな。私にとってはどの道総大司教の座は手に入る、問題ない」
「……そうか」
あの時私がアルマを救わなければ、聖堂の威光は傷つくこともなかったのだろうか。あの者がそのまま命尽きていたら、この日を迎えることもなかったのだろうか。もし何らかの奇跡が起きて、あの日に戻ることができたとしたら、私はあの者の助けを求める微かな声に耳を塞ぎ、一瞥もくれることなく横を通り過ぎればよかったのだろうか。あの者が、アルマが、あのまま路傍で独り死んでゆくとわかっていても。
──できない。そんなことは、決して。そう心から思った瞬間、一点の曇りもなく迷いは晴れる。
「サリョニよ、お前の苦しむ顔を見るのは相変わらず楽しいことだ」
私の表情から何かを悟ったのだろうヴァレンは、言葉とは裏腹に腹立たしくてたまらないといった様子でそう鼻白らんだ。私は心からの感謝を胸に相手へと深い祈りを捧げ、相手の心に寄り添うことがいかに尊い行いなのかを改めて噛みしめる。
「何の真似だ。神の加護ならもう十分間に合っている」
「それでもそなたに祈らせてくれ。ヴァレン、そなたは今確かに私を救った」
「……フン」
私はただ信じて待とう。アルマが、我が妙なる愛し子が、未だかつて誰も成就させたことのない第四と第五の預言を満たし、アズラに選ばれし勇者として再び私の前にやって来るその時を。
「ヴィヴェク卿の宮の鍵をあのアウトランダーに引き渡したなら、さっさとこの部屋を空けてもらうからな。精々今から荷造りにでも励め」
「ああ、承知した」
私の答えに肩を竦めてヴァレンは部屋を出て行き、今度こそ私一人が静寂に満ちた室内に残される。だが、沈黙は私にとってもはや重荷ではなかった。
