忘れてた

 生きていくにはお金がかかる。それは飲食に費やす分は元より、街から街へ移動するための交通費という時もあれば、もっと強力な魔法を習得するための学習費用の時もある。あるいはローブや指輪、アミュレットを揃えるための被服代もある程度は必要だ。
 私はようやくマスター・アリョンの代理人として中堅魔術師になったところだけれど、金銭的にはお世辞にも余裕があると言える状況ではなかった。できることならもう少し上位のデイドラの召喚魔法も覚えたいし、いざという時に使えそうなスクロールの手持ちもいくつか欲しい。
 そこで私は素性を隠してアルバイトをすることにした。具体的にはカルデラの魔術師ギルド員、フォルムス・ミレルさんが募集していた研究の協力者に立候補したのだ。テルヴァンニの魔術師としては堂々と敵対組織に手を貸すことはしたくなかったけれど、いかんせん先立つものがない身ではあれこれ選り好みもできない。
 幸いミレルさんは人手不足からか私を怪しむこともなく、テレポートシステムの構築に必要なダンマー要塞の座標石を持ってくれば、一つにつき五百ゴールド支払ってくれるということで話がまとまった。臨時収入目当てとしてはなかなか悪くない副業だ。
 そして順調にミレルさんから報酬を受け取っていたその日、私は次の座標石を求めてグニシスの町に来ていた。

「こんにちは、マスター・バラダス。お忙しいところお邪魔しま──」
「何の用だ、アルマ」
「!」

 町の外れにひっそりと佇む古いヴェロシの塔。その最上階で研究に勤しんでいる強大なウィザードは、そこへ現れた私の顔を見るなり淀みなくそう尋ねた。
 それは全く意外なことで、私は一瞬虚を突かれる。ここに足を運んだのはこれが初めてではなかったけれど、その人は──バラダス・デムネヴァンニというこの塔の主は、私の顔も名前も覚える気なんてないという態度をずっと隠そうともしていなかったからだ。

「何の用だと聞いている。早くしろ、私は暇ではない」
「あ……! す、すみません。その……私の名前を覚えていてくださったとは思っていなかったもので、つい」
「忘れていた、と言うとでも思ったか。生憎とそこまで耄碌はしとらん」

 若干眉間の皺を深くしながら、その人は呆れたようにそう言って頭を横に振る。それでも短く会話を打ち切られ、追い立てられるように塔を後にした初対面の時と比べれば、ずいぶんと心安く接してくれるようになったものだと感慨深くなってしまっても無理はないだろう。

「失礼しました。ええと……今日こちらにお尋ねした用件なんですが、私は今ダンマー要塞の座標石を探していまして」
「座標石?」
「そのうちの一つ、ベランダス要塞のものをバラダスさんがお持ちと聞いて来たんです」
「ああ……」

 顎先に骨ばった指を当て、軽く見上げるように頭を上げながら老魔術師は視線を横の棚へと向ける。

「その石ころなら棚の上あたりで埃を被っておるだろう。必要ならば持って行くがいい」
「えっ……い、いただいてよろしいんですか?」

 これまで集めた座標石の持ち主からはそれなりの値段で買い取らされることも多く、ミレルさんからの報酬でようやく黒字になるようなこともあったからか、あっさりとこちらにくれると言うバラダスさんに私は驚きを隠せない。けれどテルヴァンニの領地から遠く離れたこの塔に独りで暮らす風変わりなウィザードは、表情一つ変えることなくいつも通りの落ち着いた声で言った。

「構わん。昔どこぞで拾ったものだ、我が研究に使い道があるわけでなし。それに──」
「?」

 そこで一度言葉を区切ったバラダスさんは、赤い瞳の見つめる先を棚から私へと向ける。

「お前が本を三冊揃えた時に、このことは忘れんと言ったはずだ」
「……!」

 前回この塔にやって来た時、私は頼まれていた本のうち最後の一冊を持ってきたところだった。それこそがバラダスさんにマスター・ウィザードとしての責務を引き受けてもらうための条件で、そしてこの老魔術師にテルヴァンニの評議員を引き受けてもらうことこそが、弟子として後見するにあたりアリョンさんから私に出された条件だった。
 だから私があちこちの本屋を回って少ない財布の中身を叩き本を揃えて来たのは、何も純粋な手助けのためだけにしたことではない。けれどバラダス・デムネヴァンニという人は私から『ヌシュレフトの記録』を受け取りながら、その目を満足そうに細めて確かにこう言っていた──〝お前の働きは忘れん〟と。

「この程度のことで礼になるのなら、自分で好きに探して持って行け」
「あ……ありがとうございます!」

 そう言うなり机の上に広げた何らかの設計図のようなものを見比べる作業に戻ってしまったバラダスさんの隣で、私は早速棚の上を確認しようと背伸びをする。けれど爪先立ちをしても微妙に見えそうで見えないギリギリの高さのその棚は、何か台でも使うか飛び上がるかでもしなければ私の身長では目が届きそうにない。
 手近に踏み台になりそうなものが見当たらなかったために、私はできるだけ音を立てないように気をつけて軽くジャンプしてみた。一瞬だけ視界に映る、棚の上の古びた座標石。私の位置より少し斜め前にあったそれを頭の中で思い描きながら、もう一度飛び跳ねざまに手を伸ばしてはみたものの、あと一歩届かなかった指先は埃を舞い上げるばかりだ。
 それでも飛翔魔法を使うのはさすがに大げさすぎるだろうと、今度こそ狙いを定めて再び飛び上がろうとした、その時。

「そう無闇に跳ね回るな、クワマの幼虫でもあるまいに」
「あっ……!」

 私の肩越しに後ろから不意に伸ばされた老魔術師の手は、軽々と座標石を掴むとそのままそれを私に差し出した。その人の方を見なくてもわかる、バラダスさんは絶対に苦笑している。

「す……すみません、お手数をおかけしてしまって」
「あれやこれやと奮闘してみせたところで、所詮はまだ小娘に過ぎんな」
「……っ!」

 恥ずかしさから顔を上げられないまま私が座標石を受け取ると、マスター・ウィザードは空いたその手で私の頭をぽんぽんと撫でる。そんな風に子供扱いされるような歳ではないし、そんなことをされたいと思ったこともなかったはずなのに、その時の老魔術師の声はなぜかとても優しく響いて、私は胸の奥がどうしようもなく騒ぐのを感じていた。

「座標石、ありがとうございました。それでは私はこれで──」
「待て、アルマ」
「はい?」

 奇妙に早まる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をした後、場を辞そうとした私をバラダスさんが思いがけず呼び止める。背を向けかけていた私がもう一度その人の方を振り返ると、図面の隅に羽ペンを走らせていたウィザードは顔を上げて口を開いた。

「お前があと幾許かの経験を積みテルヴァンニでの位を上げたなら、いずれまた私の元へ顔を出せ。お前の手を借りるかもしれん用がある」
「は……はい!」

 召喚ホールを、長い廊下を、塔からシルトストライダー乗り場までの道を。黙々と歩いている間も奇妙な火照りは冷める気配がない。ヴェロシの塔の主に触れられた頭にそっと手を当ててみれば、自分でもおかしなほどさっと頬が熱くなっていくのがわかる。
 このままアルドルーンに着いてしまえば、カルデラまでは魔術師ギルドのテレポートを使ってすぐだ。これまでは古い石が現金に変わるのが待ち遠しかったし、そもそもそのために始めた仕事だったはずなのに、バラダスさんと同じ時間を長らく過ごしてきたのだろうこの座標石だけは、上手く言葉にできないけれどこのまま手放してしまうのが惜しい……となれば。

「ちょっと、お客さん! カルデラに行くんじゃなかったのか? 魔術師ギルドはそっちじゃないよ!」
「いいんです、やっぱり他の町に向かうことにしましたので!」

 ミレルさんには悪いけれど、元々私はテルヴァンニの魔術師だ。この不思議な感情の揺らめきが何なのかわかる時が来るまで、ベランダスの座標石は私が大切に保管しておくことにしよう。