オブリビオンの扉があちこちで開かれ、平穏な暮らしは突然終わりを告げた。けれどマーティン・セプティムという人ほど人生が激変した人なんて、きっとこの世界には一人だって存在しないはずだ。
彼と一緒に過ごした時間は決して長かったわけではない。けれどその為人を理解できないほどにはまた短くもなかった。生涯で最も濃密な日々を共にしていたのだから、それはある意味で当たり前のことではあったけれど。
『……眠れないのか?』
今も鮮明に思い出せる、彼のあの心地良く響く低い声。どうにも寝付きの悪い夜中、ついクラウドルーラー聖堂の中をうろうろしてしまっていた私を見つけるなり、あの人はいつもそう言ってクヴァッチで司祭仲間から教えてもらったというホットワインを作ってくれたものだ。
昼夜を問わずあらゆる文献にあたっていた彼の方が、よっぽどまともな睡眠なんて取っていなかっただろう。それでも静かな夜に二人だけでこっそりと台所に忍び込み、高価なスパイスをくすねて飲んだあの薫り高いワインは、私だけでなくあの人にも束の間の安らぎを与えてくれていたと信じたい。
彼はとても賢かったから、いつでもその先を見ていた。こんな結末を迎えることだっていつからかわかってしまっていたのだろうに、それでも弱音一つ吐かず、辛そうな顔一つ見せてくれることはなかった──私がどんなにそうしてほしいと心から願っていても。
『アルマ、大丈夫だ。そんなに心配そうな顔をしないでくれ。何もかも上手くいく、必ず』
弱気な姿を見せるどころか、彼はいつでも私を励ましてくれた。あの人がそう言えば、どんな困難も乗り越えられそうな気がした。どんな絶望の中にあっても、この人についていけば大丈夫だと無条件で信じられた。
英雄というのは彼のような人のことを言うのだろう。人の心を惹きつける、知恵と勇気と力とを持った人。そのためなら命を懸けられる、それだけの価値があると思わせてくれる人。輝く鎧を身につけブルーマの防衛に赴く彼は、どんな敵でも倒せてしまえそうだと心から思えた。戴冠式のために正装して帝都へと向かう彼は、まさしく王の中の王だと見た人全てが思わずにはいられなかっただろう。
けれどそんな英雄が自らの命と引き換えにできるほどの価値を見出していたのは、他でもない彼が統べることになるはずだった民である私たちと、私たちが生きるこの帝国、この世界そのものだったのだ……。
『私は自分の使命を果たす。残念ながらタムリエルを立て直すために留まることはできない……それは君たちに任せよう』
『……マーティンさん? あなたは、何を……』
『さよならだ、アルマ。一緒に過ごした時間は短かったが、君は──』
あの時、彼は一瞬だけ言葉に詰まったように口を閉じて私を見た。その見つめ合ったほんの短い時間が、私にとっての全てだった。その目にはずっと私が欲しかったものが、この長い旅路でいつしか望まずにはいられなかったものが、あふれるほどに満ちて私に向けられているように思えたのだ……彼の心、その全てが。
『君はずっといい友人でいてくれた。さあ、もう行かなくては。ドラゴンが待っているからな』
そう言った彼は、いつも私を元気づけてくれた時と同じ笑顔を浮かべていた。どことなく眩しそうな、目尻に小さな皺を刻むその微笑みは、今も私の瞼の裏に焼き付いて消えはしない。〝友人〟という言葉に込められた遥かな優しさと、微かな苦味も。
その後に起きた出来事を、私は誰よりも近くでこの目に映していたはずだ。けれど何も覚えていないのは、あまりにも強い衝撃を受けてしまったからなのだろうか。ただ呆然と立ち尽くす私を見つけたオカート議長によれば、私は声も立てずに涙を流し続けていたということだったけれど。
「マーティンさん、お久しぶりです。少し間が開きましたが、ご報告に来ました」
そして今日、私はタムリエル各地への旅を終えて再び帝都を訪れていた。オカート議長が言った通り、帝都の再建が進む中でも聖堂とアカトシュの像はそのまま記念碑として残されている。けれど捧げられていたたくさんの花の数もだんだんと少なくなり、今や私の足元には少し萎びた花束が一つ二つ置かれているだけだ。
なぜ彼だったのだろう? 否、彼でなければならなかったのだ。その身に通う血が紛れもなく皇帝に連なるものであるからこそ、彼は全てを救うことができた。それは決して私にはできない、彼だけが成し得る使命だったのだから。
それでも、この世界は果たして彼よりも大切なものだったのだろうか。あの人が生きていてくれるなら、私は自分の命を犠牲にしたって構わなかったのに。
けれど──。
「今回は最初にモロウィンドを回ってきました。帝都に呼び戻した帝国兵の分までレドラン家が奮闘してくれていたそうです。でもその分シロディールへの反感が高まっている部分もあるようで、せめて再建の物資の援助だけでもこちらからできればいいんですが。それからスカイリムでは──」
彼は私たちに託した。彼が成そうとしていた、タムリエルの再建という大仕事を。だから私は彼の後を追えない。あの人が命を賭して守ったこの世界がもう一度壊されることのないように、皇帝からの最後の命令を遂行し続る義務があるからだ。私は皇帝直属の精鋭部隊、栄えあるブレイズの一員なのだから。
「報告は以上です。次回は……そうですね、ヴァレンウッドの方から見てきましょうか。ブレイズはあなたの目、あなたの耳ですから」
彼のいない世界を生き続けなければならない呪いは、彼が愛し守ったこの世界を彼の代わりに見守り続ける使命になった。最後の皇帝の気高さを心に刻んでいる限り、私はこの誇りを胸に足を踏み出すことができるだろう。
それでも考えずにはいられない。もし彼が今ここにいてくれたら。あの声で、あの笑顔で、大丈夫だと、もう何も心配ないと言ってくれたら。タムリエルはまた立ち上がれると、もうどんなものにだって負けはしないと、力強くそう言ってくれたら。
「……マーティンさん……」
涙の滲む目で見上げる先のアカトシュの石像は何も答えはしない。自分のことなど忘れろと、あの日々は夢のようなものだったのだと。そう考えた方が楽に生きていけると、まるでそう言わんばかりに。
でも──。
「私は忘れたりしません。例えあなたがどんなにそれを願ったとしても」
彼がいなくなってもこの世界に陽は落ちまた昇る。何も変わらない日常は続き、いつしか滅びの危機にあったことさえ人々の記憶からは薄れてしまうだろう。
けれど私は忘れない。忘れることなんてできない。先頭を切ってデイドラの大群に立ち向かっていった勇姿も、居並ぶ兵たちを心の底から鼓舞するような言葉の数々も。野宿の途中で私が焼いたパンを美味しそうに平らげてくれた時の森の匂いも、長らく走らせた馬の首筋を労るように撫でていた時の夕日の色も。アズラの星を見てあまりの美しさに零した感嘆のため息も、サングインのバラを見て思わず見せた気まずそうな表情でさえも。
それらの全てを私はこんなにも愛おしく思っていたことを、私の命が尽きるその時まで、ずっと。
「また来ます。何度でも……私がこの世界に生きている限り」
天を突くような竜の神の像は相変わらず無言のままだ。けれど涙を拭ってそう告げ踵を返した私の背には、どこからかあの人と同じ温かい視線が注がれているような気がした。
