安らかに眠れ

 激しい苦痛は既に消え去り、暑くも寒くもない無限の暗闇の中に私は揺蕩う。身体は羽根のように軽いが、動かそうとしたところで指一本上がる気配すら感じられない。そもそもそこに身体というものが本当に存在するのかと言うことさえ、今の私には非常に疑わしく思えるとしか言いようがなかった。
 なぜなら今の私の状態を客観的に判断するとすれば、アルケインの術に秀でた者として適当な答えは一つしかなかろうと思われるからだ──すなわち、死を迎えたのだと。

『アンカノさん、もうやめてください! これ以上あなたがこんなことを続けるのなら、私は──』

 その時ふと脳裏に浮かぶ、マグナスの杖を持ち私を屠った者の苦悶に満ちた顔。辺境の地、本来なら私のようなサルモールの高官が赴くことなど考えられもしないような寂れたその場所に、魔術の粋を学ぶべく現れた大した取り柄もないブレトンの新入生。取るに足らない、全くもって無価値な、有象無象の虫ケラ女。顧問としての私の立場など当然把握して然るべきだろうに、無駄に私にまとわりつき、時には元素魔法の指南をしてくれとまで言い出す無礼極まりない魔術師だった。

「アンカノさん、この前おっしゃっていた破壊魔法のことですが──」
「君のような凡庸な魔術師とは会話をする時間も惜しい。サマーセットの幼児でも理解できるこれらの本でも勝手に読んでいてくれたまえ」
「あ……わざわざリストを作ってくださったんですか?」
「それを持ってさっさと消えろと言わねばまだ理解できないとでも?」
「す、すみません。あの……リスト、ありがとうございます!」
「……フン」

 あんな場所で私の真の力を見せてやる気など毛頭なかったとは言え、ミラベル・アーヴィンを筆頭に露骨に私を避けてばかりいる大学の連中の中で、あの女──アルマと言うブレトンの見習い魔術師だけが、私に本来払われるべき敬意を持って接していた。学内で私を見かければ遠くからでも駆け寄って来ては声をかけ、私の任務の邪魔ばかりする目障りな存在ではあったが、あの女の要領を得ない雑談の中から拾えた情報も一つや二つはあったかもしれない。
 だがその時の私はまだ夢にも思っていなかった。サールザルの遺跡でマグナスの目を発見したアルマの能力が、サイジック会との度重なる接触を経て徐々に覚醒し、類稀な召喚術師としての才能を伸ばし始めていたなどとは。

「アンカノさん! こちらにいらっしゃったんですね」
「またお前か、邪魔をするなともう何度も言ったはずだが? 私は重要な事項についていくつも考えねばならないのだ。お前如きの相手をしているような暇などない」
「すみません。でもようやく新しい魔術を使いこなせるようになりましたので、ぜひアンカノさんには一番に見ていただきたくて」
「……!」

 私がダンレインの予言者と接触し、マグナスの目の奪取方法を思い巡らせていた頃。いつものように中庭で思案していた私の前に現れたあの女は、そう言うなり大気の精霊と鉄の精霊の二体を同時に喚び出した。今の時代、これら上位の精霊を召喚できる人間など何人いるのだろうか? 一体喚び出すだけでもマジカが尽きるだろうそれを二体も従えて平然と立っていられるのは、サルモールでも相当の高位でなければとてもできることではない。

「お前……一体どこでそんな術を覚えた?」
「以前アンカノさんが紹介してくださった破壊術の本の中に、参考文献として記されていたものがあったんです。確か召喚術を応用した罠魔法の展開方法についてだったと思いますが、残念ながら私は破壊術の方面には才能がなかったので……」

 申し訳なさげにそう言ったアルマに、私は思わず唇を噛んだ。新入生の中でも最も見込みがないだろうと断じていたこの女が、いつの間にかこの学内でも指折りの危険な存在になっていたとは。それでいてこうも無邪気に私を慕っているかのような素振りを見せられるのは、拳を握りしめずにはいられないほど無性に腹が立って仕方がなかった。
 だが最も苛立ちを感じたのは、この女のことなら何でも把握しているつもりだった私が、ここまで飛躍的に伸びたアルマの成長に全く気づいていなかったことと、誰よりも先に私に成果を見せたかったのだと言われた時、否定できないほど確かに満足感を覚えたことに対してだった。

「……何が望みだ」
「えっ?」
「私に情けをかけてでもいるつもりか? それともたかが上位の精霊を召喚した程度で見せつけているつもりなのか? 下等なブレトン女の分際で……!」

 何度追い払おうと懲りずに私を慕い、学友に諌められたところでそれを改める気配もない。常に私に手を差し伸べ、ともすれば距離を詰めてこようとさえする。この女は一体何が目的なのだ? 私は話し相手など求めているわけではない。ましてや何かを教授してやるつもりなどあるはずもない。こんな辺鄙な地の低俗な大学など、私の野望が達成された暁には塵となって消え行く程度の価値しかないと言うのに、この女は。

「違います! 情けなんて、そんな……っ私はただ、あなたのことが」
「失せろ。二度と私に話しかけるな」
「アンカノさん!」

 そんな警告をしてやるつもりなどなかった。だが私はきっとどこかで気づいていた。これ以上アルマに、この女に関わり続けるのは危険だと。故に私は計画を早めることにした。元素の間を封じ、マグナスの目を手に入れることにしたのだ。募り続ける苛立ちと共に、何もかもを破壊してしまいたかった。
 しかし──。

「やはり貴様か……どこまでも目障りなウジ虫め」
「アンカノさん、もうやめてください! これ以上あなたがこんなことを続けるのなら、私は──」
「黙れ! 私に挑戦するだと? 厚かましい!」

 アルマの顔も見ず、声も聞かずに済む日々は快適なはずだった。目障りなものは全て排除し、野望の達成のみに邁進していればそれでいいはずだった。しかしあの時芽生えたやり場のない感情は消えるどころか増大するばかりで、それが私をどうしようもなく焦らせ、そして苛立たせた。
 だがアルマが元素の間に現れ私の前に立ちはだかった時、真っ直ぐに私を見つめ、私の名をその口にした瞬間、私はどうしようもないほどはっきりと思い知らされたのだ──この女がこうして万難を排し私の元へやって来ることを、私はいつの頃からか心の奥底で待ち望んでいたのだと。

「死ね、虫ケラ!」

 私はそれが許せなかった。到底認めることなどできなかった。私は優秀なアルトマー、一握りの者しか名乗ることを許されないサルモールの高官なのだ。それが、こんな。こんな女に。

「嫌だあああ……!」

 ──そしてもはや霊魂とでも言うべき存在に成り果てたのだろう私は、ここに来て再び奇妙な感覚に晒されていた。今しがたまで上下の感覚すらなかったと言うのに、何かが降りてくる、あるいは私自身が降ろされていくような重力を感じるのだ。何の温度もなかったはずの空間は段々と冷え始め、静謐だった虚無の中に何者かの声が響き始める。

「……ノさん……」

 それは何よりも拒み、また望んでいたあの女の声。

「……カノさん……アンカノさん……!」

 やめてくれ。やっと何もかも忘れることを許される場所まで来たと言うのに、これ以上あの女に煩わされることなど真っ平だ。

「──アンカノさん!」
「っ!」

 長い夢から覚めた時のように、私ははっと目を見開く。そこには泣きじゃくった無様な醜い顔を晒しているアルマが、私の両肩を揺さぶるように手をかけている姿があった。

「アンカノさん!」
「……その手を……どけろ、穢れ……る……」
「アンカノさんっ……!」
「ぐっ!」

 身を起こそうとした私に構わず、ブレトン女は私の首元に齧り付かんばかりの勢いで固くしがみついてくる。その質量を鑑みる限り、これは夢や幻の類ではない。そして思わずアルマから顔を背けた私の目には、蒼白な顔で独り立ち尽くしているトルフディルが映る。それだけで、何が起きたのかを理解するにはもう十分だった。

「サイジックか……こういう時だけ、は……素早い、奴らだ」

 マグナスの目のあった場所を見つめてそう呟いてはみるものの、やはり早々呂律がうまく回るというわけではないらしい。それでも実しやかに言われている絶え間ない苦痛を感じるわけではないと言うことは、私にかけられた術が非常に特異なものであることを示している。

「あなたがなぜこんなことをしたのか、もうそんなことを聞くつもりはありません。それでもあなたがしたことは、決して許されていいことでもありません」
「…………」
「何人もの人が命を落としました。その人たちはもう帰ってきません。アンカノさん……あなたはその報いを受けなくてはいけない」
「なら貴様はなぜ私をこの世に喚び戻した……⁉︎」

 アルマは相も変わらず零れ落ちる涙を拭いもせずに顔を上げると、手を離せば私が消えかねないとでも言わんばかりに肩を掴む力を強め、祈りかあるいは懇願か、もしくは宣誓でもするような厳かな声で私にこう命令した。

「あなたを安らかに眠らせてなんてあげません。私の命がある限り、ずっと私と一緒にいてください。それがアンカノさんの、あなたへの罰です」
「……!」

 一度は死した身だと言うのに、意識などしなくても以前と同じく眉間に皺が寄る。この女は全くとんでもないことをしでかしてくれた。召喚術を極めた者は、どうやら喚び戻した魂に課せられるべき枷のいくつかをも外してしまったらしい。安息の訪れない苦悶も、自由な意思を阻む何某かの拘束も、それらの全てを少なくとも今の私が感じることはない。恐らく、術者の命令には絶対服従というただ一つの法則を除いては。

「死霊術を行使されている側に、術者に逆らう術はない。せいぜい貴様の好きにしろ」

 私はもはやこの女に逆らうことはできず、またこの女を殺したところで自由を取り戻せるわけでもない。だとすれば私に残されているのは、非常に不本意ではあるがアルマと共に生き──あるいは死ぬ、と言う何とも拷問めいた道だけだ。
 だがこれは驚異的な術だ。こんな術を扱う危険人物を、私のような熟達した魔術師の監視なしに世に放つことなど許されていいわけがない。そうであれば四六時中行動を共にしなくてはならなくても仕方のないことだろう。望む望まないとにかかわらず、これは私ほどの能力を持つ者にしかできない重要な役目なのだ。

「はい、好きにさせていただきます」

 再び安堵の涙を流し、それでも心底嬉しそうに笑ってそう言ったアルマに、もはや脈打つこともない私の心臓が一つ大きな鼓動を刻んだ気がした。