ここ数日、私はできるだけ今日が何日かを確認しないようにしていた。まるで無限に湧いてくるかのような仕事に忙殺されているうちに、サトゥラリアが過ぎ去ってはくれないものかと密かに期待していたのだ。なのに、新たな書類をどことなく嬉しそうにも見える顔でサドリス・モラから運んできた代理人のエディ君は、よりにもよって一番聞きたくない言葉を今しがた私にかけてから帰っていった。
『よう師匠、お疲れさん。今日はサトゥ何とかってブレトンの祭りだってのに悪いな。まぁアークマジスターってのは本来忙しいもんなんだぜ』
前任のゴスレンさんは絶対にこんなことをしていなかったような気もするけれど、よそ者で新顔の私はこういうものだと言われてしまうとなかなか拒否もしづらい。今の私の立場ならば前任に倣って一蹴してしまうということもできなくはないけれど、これもまた数日前エディ君に言われた言葉を思い返せば強行する気にはなれなかった。
『なあ、ミストレス・アルマ。今までこっちでできるもんはどうにか捌いてきたけどよ、さすがにこれ以上は無理だ。このままじゃあんたの決済待ちの書類がテル・ナーガより高く積み上がっちまうぞ。いい加減グニシスにばっか行ってないでテルヴァンニの仕事もしてくれよな』
自分の名誉のために言っておくと、私は仕事をしていなかったわけではない。むしろ辺境まで足を伸ばして他の大家と小競り合いをしている魔術師を支援したり、議事堂の魂石の修理に自腹で資金を提供したり、他にも挙げればそれなりにいろいろと貢献してきたつもりだ。エディ君にも折に触れすることがあったら声をかけてほしいと伝えていたし、実際これまではそれでうまく回っていた。
ところがしばらく前に私とマスター・ウィザードの一人、バラダスさんが恋仲になってからというもの、アークマジスターに急を要するという触れ込みの案件が異様に増えた。それまで比較的自由な時間を作ってグニシスまで行けていた私は、自分の塔とは言えテル・ウヴィリスに缶詰に近い状態になった。それでもどうにか時間を捻出してバラダスさんの顔だけでも見に行ったりはしていたものの、星霜の月に入るや否や、どういうわけか食事の時間も満足に確保できない立て込み様になってしまった。
サトゥラリアは元々ブレトンのお祭りで、帝都では一般的だけれどモロウィンドではまだそこまで広まっているわけではない。帝国と関係の深いフラールの領地やヴィヴェクの都では多少の飾り付けくらいはしているかもしれないけれど、グニシスでは精々ダリウス砦の帝国兵たちが家族からの手紙や小包を受け取っているくらいだろうか。いずれにせよ、バラダスさんの興味がありそうな行事ではないことは確かだ。
それでも大切な人に贈り物をしたり一緒に過ごすという祭りの趣旨を考えれば、せめて私から何かをプレゼントしたいと思ってもそうおかしなことではないだろう。できればバラダスさんに直接会って手渡し、一緒に過ごせればそれが一番望ましいのは間違いないけれど、私をテル・ウヴィリスから出さないのが目的かのように日々増えていく書簡や書類の束を見ているうちに、早めに仕事を終わらせてグニシスに行くという夢は諦めざるを得なくなった。
以前から準備をしていた年代物のシロディール・ブランデーに、直接会いに行けなくてごめんなさいという短い手紙を添えて、アルヴス・ドレレンに届けてもらうようバラダスさんの代理人に頼んだのは確か五日ほど前だった。今頃私の贈り物はバラダスさんの元に届いているだろうか。残念ながら今日という日を一緒に過ごすことはできなかったけれど、少しでも私のことを思い浮かべてくれたりはしただろうか。
そんなことを考え始めると、バラダスさんに会いたくて会いたくてたまらなくなる。けれど何もかも投げ出してグニシスまで会いに行ったりすれば、私だけでなくバラダスさんの立場も悪くしてしまうだろう。だからサトゥラリアのことはなるべく考えず、一緒にいられないということを改めて意識しないようにしていたのに、エディ君の一言で完全に気持ちが切れてしまった。もう心も身体もボロボロだ。
そのせいで幻覚まで見えてきて、いい加減に少し休まなければいけないかもしれない。
「……何だ、その顔は」
「…………」
「お前は私の塔を幾度も訪れていたと言うに、私がお前の塔へやって来るは不快だとでも言うつもりか」
「……え……?」
「それにしても何だ、この紙束の山は──」
「バ、バラダスさん⁉︎」
思わず文机から立ち上がった私の周りに、封がされたままのスクロールや書類が何枚もバサバサと落ちる。それでも私の部屋の扉を開けて入ってきた幻覚は消えることなく、記憶と同じ角度で眉を顰めると呆れたような声で言った。
「お前とはそんな他人行儀な確認を要する仲ではなかったように思ったが。しばらく見ぬ間に顔を忘れたとでも言うのではあるまいな、アルマ」
「……!」
本当に驚くと人は声が出せなくなると、私はこの時初めて知った。まさかそんな! だとか、どうしてここに? だとか、言いたい言葉はいろいろあったけれど、そのどれもが声になんてならない。今目の前にバラダスさんがいるのは現実なのだということが、瞬きを一回する度に、呼吸を一度する度に、少しずつ実感となって身体中を巡っていく気がする。
そしてそれが胸の中いっぱいに満ちてあふれ出した瞬間、私は弾かれたように机を飛び越えてそのままバラダスさんに飛びついた。
「バラダスさん……バラダスさん、バラダスさん……!」
「全く、この程度で泣く者がおるか。アークマジスターの沽券にかかわるぞ」
「だって……っ、会いたかった……!」
以前と同じく、私を軽々と抱き留めたバラダスさんの腕が背中を引き寄せる。自分では全く泣くつもりなんてなかったけれど、瞬く間に涙があふれてせっかく会えたのに顔もよく見えない。それでもそんな私の呼吸が落ち着くまでバラダスさんは頭を撫でてくれたし、ローブの袖で涙を拭うのを何も言わずに待っていてくれた。
「……まだ日付けは変わっておらんか」
「えっ?」
ちらりと棚の上の時計に目をやりつつ、バラダスさんがそう呟く。それを聞いて顔を上げた私に視線を戻し、老魔術師は小さく微笑む。
「これがお前の望みだったと書いてあったろう。ブレトン娘の我儘に付き合ってやるも、一度や二度ならそう悪くもなかろうて」
贈り物に添えた手紙に、本当は会いに行きたかったと私は書いた。でも。まさか。こんな形でそれが叶うだなんて。
「それに──」
「はい?」
「会いたく思うは何もお前ばかりではない」
「……っ!」
耳元でそっと囁かれたあまりにも嬉しいその言葉に、私の弱った精神が耐えきれず一瞬気が遠のきかける。けれどどうにか意志の力で意識を手繰り寄せ踏み留まり、私はここまで会いに来てくれた大切な人をもう一度見つめる。
「バラダスさん」
「ん?」
「メリーサトゥラリア。あなたと一緒に過ごせて幸せです……来てくださってありがとうございました」
そう告げた私の唇に、バラダスさんのそれが優しく重なった。
次の日書類を取りに来たエディ君はバラダスさんを見るなりなぜか絶叫していたけれど、その時の私には幸せな時間を彩るサトゥラリアの鐘の音のようにしか聞こえなかった。
