「バ、バラダスさん……!」
ネレヴァリンに至る第四と第五の試練とやらに挑んでいたアルマはその日、我が塔に現れるや否や涙目で私に駆け寄りそのまま抱きついてきた。日頃はかくも取り乱した姿を見せるは良しとしないこの娘が、こんな状態を晒すということはよほどの異常事態だ。
「な……何だアルマ、どうした。レドランの者にでも斬りつけられたのか?」
出がけにまずアルドルーンへ向かうと言っていたはずのアルマにそう問えば、否定の意を示さんとその首を横に振りながらも、我が背に回された娘の腕の力が緩むことはない。
「レドランの方は上手くいきました。なのでヴィヴェクのフラールの評議員のところへ向かったんですが、そこで……」
言い淀んだブレトン娘に、私は無言でその先を催促する。そしてしばしの逡巡の後に微かにその身を震わせながら、我が情人たるただ一人の娘は信じ難い文言を口にした。
「ある評議員が……ホーテイターとして支持してほしいならキスをしろと言ってきたんです」
「!」
我が耳を疑うその言葉に、一瞬二の句を継げず黙り込む。しかしすぐさま我に返った私はアルマの細い肩に手をかけると、平静を装うこともできぬまま問い質さずにはいられなかった。
「そ、それでお前はよもや相手の望み通りに振る舞ったなどと言うわけではあるまいな」
「まさか!」
飛び跳ねんばかりの勢いで顔を上げ、血相を変えたブレトン娘は身振り手振りを交えて語り出す。
「あまりのことにびっくりしてすぐに声が出せなかったのは不覚でしたが、それを承諾と勘違いされて迫ってこられるのが恐ろしくて、その……」
「何だ。どうしたのだ、早く言え」
「相手の頬を思い切り引っ叩いて転移魔法で帰って来てしまったんです」
「……!」
よくやったと褒めてやるべきなのかもしれない。しかし嘘偽りなく述べるならば致命的に物足りない。だがオブリビオン送りにでもしてやれと言ってやりたいのは山々だが、一時の感情に身を任せそのような暴挙に及んだならば、元よりテルヴァンニに属するこの娘の立場が更に悪化するのは明白だ。
さりとて何を要求されようとただ黙って従えなどと一体誰が言えようか? 現にアルマは未だ恐慌状態から覚めやらぬのか、常のような落ち着きを失いその目に涙を溜めている。
「ど、どうしましょう。一人でも評議員の機嫌を損ねればホーテイターにはなれないのに、それでもあなた以外の人とそんなことをするなんて考えられません」
「当たり前だ!」
柄にもなく声を荒げ、私は間髪入れずにそう返した。私とてアルマが他人と唇を交わす姿など思い浮かべたいはずもない。
そもそもこの娘は他ならぬ私のものなのだ。私以外の誰であろうと、アルマに邪な思いを抱いて近づくことは罷りならん。ましてやこの娘からは断ることもままならぬそんな状況下で、己の欲を満たそうとする輩などその命で贖わせたところでまだ手緩い。
とは言えアルマ自らがネレヴァリンとなる意志を有しているのならば、その大家における全ての評議員から賛同の票を得ることは不可避な試練の一つでもある……。
「金だ。金で解決しろ。足りんのならば用立ててやる。お前も既に知っておろう、不可能と思われることでも大抵は金の力でどうにでもなると。それが例え金満フラールの高位の者であろうと、奇妙にも金に恵まれている者ほどより多くの金を持ちたがるものだ」
「それも申し出てみたんですが、何度言っても私のことが好きだから金なんていらない、キスしてくれればいいの一点張りで」
「……この地で権力の座に就いている者に、頭がまともな奴はおらんのか……⁉︎」
私は我知らず両手で頭を抱え、不毛な時代に生きねばならない己が身の不幸を嘆く。しかし意味もなくただ嘆いているだけでは、この馬鹿げているにも程がある状況から抜け出すこともまた叶わぬ。
灰の荒野の蛮族共が子々孫々へと語り継ぐ、在りし日のチャイマーの英雄ネレヴァルの再来たる救世主。その預言の条件を全て満たすに限りなく近い場所にいるアルマに、各勢力がしがらみを超えネレヴァリンの名を冠することができなければ、近い将来モロウィンドはダゴスの者の手によって滅ぶことになるだろう。
その滅亡の元凶がかくも愚かな一人の男の振る舞いであったなどと、そんなふざけた話が許されていいはずもない──だとすれば。
「……なればアルマ、その低俗極まりない下衆な評議員に蛇蝎の如く嫌われるように仕向けろ」
「!」
情というものが絡むと途端に物事はややこしくなる。割り切った金のやり取りで済ませられるのならばその方がよほど手間がない。だからこそ私はその男の不快な関心を絶たせるべく、アルマが好まぬであろうとわかっている手段を敢えて伝授する。
「挑発だろうと脅迫だろうと構わん。これ以上お前と会話をするくらいなら、金だけ置いて去れと言われるまで己を見誤らせるのだ。今やお前をホーテイターとして認める以外に生き延びる術がないと理解できる程度の知能が残っていれば、相手もある程度の金で妥協し引き下がらざるを得まい」
ただでさえアウトランダーとして迫害紛いの扱いを受けていた身であれば、自ら相手の神経を逆撫でする行動を取ることに躊躇がないはずもなかろう。そしてそれを実行してみたところで、必ずしも全て上手くいくという保証があるわけでもない。それをこのブレトン娘もしかと認識しているのか、隠しきれぬ不安に揺れるまなざしが縋るように私を見上げる。
「……もしそれがうまくいかなかったら……?」
「万策尽きたならば、その時は──」
あまりにも心細げに我が耳に響いたアルマのその声に、まだ今しばらくは秘めておくと決めたはずの言葉が咄嗟に口をついて零れ落ちる。いずれ全てが終わった時にと考えていたはずのそれが。
「その時はネレヴァリンになどならずともよい。このままずっと私の側にいろ」
「!」
私がそう告げた瞬間、見開かれた娘の瞳の中に夜空の星々めいた輝きが散る。そのあまりにも鮮烈な様に私は思わず魅入られ息を呑み、アルマの顔には幸福に満ちた微笑みが広がっていく。
「わかりました。では今からもう一度ヴィヴェクに行ってきます!」
「う、うむ」
喜び勇んでそう言い残し我が塔を後にしたアルマが、無事に金で片がついたとどこか意気消沈した様子で戻って来たことは、後の世に伝わるであろうこの娘の伝説に残らぬことを願おう。
