ダゴス・ウルを倒し、ネレヴァリンとしての使命を終えた私は、しばしの休息を取った後でグニシスの町を訪れていた。町外れにひっそりと佇むヴェロシの塔の最上階、もう何度来たかもわからないここへ足を運ぶのもこれが最後になるだろう。
「ハイロックへ戻る?」
「はい」
「ついに昔のことでも思い出したか。お前に縁のある場所でも」
「……いいえ、そういうわけでは……」
セイダ・ニーンに降り立つ前までのことを何一つ覚えていない私にとって、帰るべき場所も会うべき人も無いことは残念ながら事実だ。もしそんなものが私にあるとすれば、それはきっと今いるこの場所、目の前にいるこの人であることは間違いないだろうけれど。
「知らない場所でまた一からやり直してみたいと思ったんです。ここでは私の名前は少し知られ過ぎてしまったので」
できるだけ自然に聞こえるように注意を払っているつもりでも、何もかもを見透かすまなざしの前では平静でなんていられない。あなたの面影がない場所なら、あなたを思い出さずにいられる場所ならどこでもよかったと見抜かれてしまいそうで。
「そうか。お前が決めたことだ、何にせよ達者で暮らせ」
静かに告げられたその言葉に、胸の奥が鋭く締め付けられる。私がずっと想いを寄せていた人は、最後までその心の内を明かしてくれることはなかった。私のことを好いていたのか、あるいはその逆だったのかさえ。
いつからこの人に惹かれていたのか、自分でもはっきりとはわからない。けれど気づいた時にはもう好きだった。他の誰とも違う気持ちで想っていた。どうしようもなく追い詰められ、死がすぐそこまで迫ってきているような時は、いつもこの人が私にくれた指輪を握りしめて祈ったものだ。
せめてもう一度だけでも会いたい、その願いは私を死の淵から何度だって呼び戻した。レッドマウンテンの最深部、骨も残さず溶かす溶岩のたぎる呪われた場所からでさえも。
「ありがとうございます。私はこれでモロウィンドを離れますが、もし……あなたの気が向いたら、いつか……いつか……会いに、来……」
〝いつか会いに来てほしい〟だなんてありふれた社交辞令ですら、バラダス・デムネヴァンニという人を前にしては最後まで言うこともできない。この人はそんなことをするはずがないと、私には既にはっきりとわかっているからだ。この人にとって私はそんな価値のある相手にはなれなかったということも。
私はこれまで自分なりに精一杯好意を伝えてきたつもりだし、相手もまたこちらの想いに気づいていると確信できる出来事はいくつかあった。それでもこの人は私の気持ちを受け入れてくれるわけでもなく、だからと言ってそれを拒んで諦めさせてくれることもなかった。要するに、私の想いを知る前後で相手の態度は一切変わらなかったのだ。
それはもしかしたらその人なりの優しさだったのかもしれないけれど、同時にとても残酷だと恨めしく感じたことがなかったわけではない。望みがないならいっそ突き放してくれれば余計な夢も見ないのに、拒絶されないことを口実に私はずっと奇跡が起こるのを待っていた。
「ほう、この私にハイロックくんだりまで足を運べと言うか。そんな口を利くのはタムリエル広しと言えどもアルマ、お前くらいだろうて」
「……ええ、そうかもしれませんね」
叶わぬ恋を忘れるためにモロウィンドを離れると決めたのに、こんな皮肉にも心弾んでしまうほどに未練は尽きない。
本当はずっと側にいたい。私の短い寿命が尽きるまでの間だけでも相手をしてほしい。私がこの人を想うように、私もこの人に想われたい。そんな身の程知らずの願いにも、今日で区切りをつけることができるだろうか。
そんなことを考えていると、この期に及んで視界が涙で曇る。これ以上ここにいてはいけない。せめて最後くらいは笑顔で別れようと決めていたのに。
「お邪魔してすみませんでした。それでは私はこれで――」
「待て、アルマ」
「!」
けれどそう言って背を向けた私の足を、他でもないバラダスさんの声がその場に縫い止めた。全く予想していなかったこの事態に、頭の中が真っ白になる。急に激しく脈を打ち始めた鼓動以外は何も聞こえない中、相手は黙ったまま何一つ言葉を発しようとはしない。その長くも短い沈黙の重さに耐えきれなくなった私は、じっと私を見つめているのだろう老魔術師をゆっくりと振り向いた。
「……なに、か……?」
蚊の鳴くような声で私がそう問いかければ、赤い瞳にほんの一瞬苦悩に満ちた影がよぎって消える。そしてバラダスさんはどこか躊躇いがちに声を潜めるとこう言った。
「もし私が行くなと言ったならば、お前は一体何と答える」
「……!」
その口から出た言葉は、にわかには信じ難いものだった。どうして今、こんなことを言うのだろう? やっとの思いで覚悟を決めて、後ろを振り返らずこの塔から出ていく決心がついたのに、どうして今更その全てを砕いてしまおうとするのだろうか?
できることなら何もかもを忘れ、声を上げて泣いてしまいたい。けれど胸に浮かぶいくつもの言葉の中から残るものはたった一つだった。
「アルマ」
瞬き一つできない私の頬に、バラダスさんの乾いた掌がそっと重なる。いつも冷静なマスター・ウィザードの表情が微かに歪み、複雑な感情が入り混じった視線は私の上から外されることはない。
「お前は若い。いずれそう遠からぬ時にお前は気の迷いから覚め、我が元へ通ったことを悔いるようになる日が来るだろう。そうであればこそ私はお前を縛り付けはせぬと決めたのだ。私自身がどんなにかそうすることを望んでいようとな」
ずっと触れてほしかったその手が、ゆっくりと私の頬を撫でる。胸の中を埋め尽くしていたはずの困惑や憤りは、零れ落ちる涙と共に幻のようにかき消えてしまう。
「アルマ、お前が本心から出ていくことを望むならばこの手を振り払え。さもなくば――」
相手の言葉の終わりを待たず、私は頬に添えられたその手に縋り付く。想いに突き動かされるまま、愛する人の指先に唇を寄せる。
「あ、あなたと……バラダスさんと一緒にいさせてください。あなたの側にいたいんです。バラダスさんと一緒にいられるのなら、私はどんなことだってできます……!」
想えば想うほど苦しくて、だからこそ会えた時はたまらなく幸せだった。少しでも親しくしてもらえたら、それこそどんな困難にだって立ち向かえた。私を振り向いてくれる日なんて来ないということが明白でも、自分からは諦めきれないほどに深く、大切な想いだった。
「……まこと愚かな娘よ。お前ほど愚かな小娘を私は他に一人も知らん。だが……」
バラダスさんに抱き寄せられるがまま、私は腕の中で目を閉じる。額にそっと触れた唇が、優しい声で秘密を打ち明ける。
「そんなお前のおらぬ日々など、もはや私には考えられんのだ」
今までの苦しみの全てに報いてくれるその人の言葉は、どんな愛の告白よりもなお甘く私の耳に響いた。
