レッドマウンテンに赴く前、最後の夜を私はその人の元で過ごした。小さなテーブルにまんじりともせず向かい合って座ったまま、私たちは訥々と取り留めのない会話を交わし、夜が明けようかと言う頃、私はその古いヴェロシの塔を後にした。
セルジョ・テルヴァンニ・バラダス・デムネヴァンニ──正式な名を全て名乗るならそんな長い貴族の肩書きがつく塔の主と、私がいつしか想い合う仲になったことを知っている人は少ない。別に隠しているわけではないし、尋ねられれば答えてもいたのだけれど、わざわざ会った人全てに言って回るようなことでもなかったからだ。
私はその人と一緒にいられることがとても幸せだったし、ネレヴァリンでもアークマジスターでもないただの一人のアルマとして、ありのままの私を見てもらえることがひどく心地良かった。そしてそのあまりにも甘い幸福の味を既に知ってしまったからこそ、私を道連れにしようと伸ばされたダゴス・ウルの手から逃れられたのだと私は思っている。
絶対に生きてアルヴス・ドレレンにもう一度帰るのだと、その強い意志の力がもう動かなかったはずの私の身体を半歩後ずらせた。もしもそうでなかったら、私はシャーマットに足首を掴まれ共に溶岩の海へと沈んでいただろう。バラダスさんと出会う前の私には、そんなにも強い思いで私をこの世界に繋ぎ止めてくれるものは何もなかったのだから。
アズラから全ての預言の成就を告げられ、その証となる指輪を与えられた私は、今が朝か夜かもわからないまま気力を振り絞って神秘魔術を行使した。この世界でたった一つの私の戻り先、グニシスの外れに立つアルヴス・ドレレン。この呪文が示す場所がその古いヴェロシの塔になってから、私が転移魔法の印を他のところに変えたことはない。
ふっと一瞬視界が遮られ、まるで重力を失ったかのように身体がほんの僅か宙に浮く。その瞬き一度にも満たないほどの短い時間が過ぎた後、私の目には再び見慣れた魔術師の塔が映っていた。
「……!」
私がそこに現れるや否や、バラダスさんは瞬間的に私に気づいた。それ自体はいつも通りではあったのだけれど、そこから先が全く違った。いつもなら〝遅かったな〟だとか、〝戻ったか〟なんて声をかけてくれるのに、その時の老魔術師は決してその口を開かず、きつく眉を寄せたままひどく深刻そうな顔で私を凝視していた。
「た、ただいま戻りました」
それを不思議に思いながらも日頃と同じくそう告げた私は、そこでようやく自分の声がひどく枯れていることや、あちらこちらから血が流れているような酷い有様だったことに気づいた。いくら深い仲であったとしても、いきなり相手が血まみれで現れればそれは驚きもするだろう。
せめてもう少し回復するまで休んで、身なりを整える余裕を作ってから戻ればよかったのかもしれない。けれど私の頭にあったのはただ、この人の元に帰りたいという願いだけだった。他のことなんて何一つ考えることはできなかった……。
「あの、バラダスさ──」
「この……っ馬鹿娘めが!」
黙ったままのバラダスさんにもう一度私が声をかけようとしたその時、相手にしては珍しい怒鳴り声が部屋の中に響く。そして思わずびくりと肩を跳ねさせた私の前まで一足飛びに駆け寄ると、その人はそのまま両腕を回し私を抱え込むように強く抱きしめた。
「……よく戻った……!」
「……!」
もう何度もこうしてこの場所に戻って来て、その度に声をかけてもらってはいたけれど、バラダスさんから〝よく戻った〟と言われたのはこれが初めてだった。その涙交じりのように掠れた声や、痛いほどに強く抱きしめてくれる腕の微かな震えは、何も言わずに私を見送ってくれたこの孤高の老魔術師が、どんな気持ちで私の帰りを待っていてくれたのかをはっきりと教えてくれる。
その想いが嬉しくて、温かくて、どうしようもなく切なくて。そんなつもりはなかったのに、勝手に涙があふれてくる。
「バ……バラダスさ……バラダス、さん……わ、私……」
「亡霊か何かかと見紛うような姿をして戻って来おって。全く、心の臓が握り潰されるかと思ったわ」
「ごめ、ごめんなさ……い……っ」
声を上げて泣き始める私の背を、ようやく少し緩んだバラダスさんの手が繰り返し撫でてくれる。英雄や救世主に対してではなく、ただの仲睦まじい恋人にしてくれるように。
「アルマ……アルマ」
その間も絶え間なく耳元で紡ぎ出される自分の名前は、まるで私が今ここにいることを確かめようとしてくれているかのようだ。私も相手の名前を呼びたいのに、止め処なく泣きじゃくるばかりでまともに言葉も話せない。
「アルマ、お前は生きて戻った。私にはそれだけで十分だ。とは言え……」
「?」
「お前の疲れを癒やすのは、湯浴みを終えてからにした方がよかろうな」
「っ!」
服はぼろぼろ、髪も顔もぐしゃぐしゃ、頬にも唇にも手足にもまだ乾き切らない血がついたままの私だけれど、バラダスさんはそう言いながら心底嬉しそうな笑顔を一瞬見せると、自分の服が汚れるのも構わずもう一度私をその胸に抱きしめてくれた。
