お前さえいなければ…

「バラダスさん、前から気になっていたんですが……」
「何だ」
「どうして評議員を引き受けてくださったんですか?」

 その日もいつものようにグニシスの外れの塔を訪れていた私は、いくつかの金属片を前に図面を引いている人の横顔に向かってそう問いかけた。相手はこちらを振り向くこともなく線を何本か書き加えた後、おもむろに紙片を掲げて全体を確かめながらため息混じりにぼそりと呟く。

「ずいぶんと今更なことを聞く……」
「す、すみません」
「なぜそんなことが気にかかるのだ」

 それはどうしてもわからないからだ。研究以外に興味はなく、他の誰かに煩わされるのも辛抱ならないというこの老魔術師が、代理人を通じてとは言えあれやこれやと都度議題に決断を下す──風変わりなウィザードの気紛れにしてはいくら何でも度が過ぎている。
 私が無謀なアプローチと玉砕の末にこの人の恋人と呼ばれる立場を手に入れた今でさえ、その謎を解き明かすことは残念ながらまだできていない。と言うよりも、むしろ疑問ばかりが際限なく浮かんできてしまう。バラダスさんのことを知れば知るほど、こんな頼みを易々と引き受けてくれる人ではないとしか思えないのだから。

「バラダスさんは大家の政治面に興味があるわけではないでしょう? あまり益がないと言いますか、面倒事が増えてしまいますので」
「ほう、よく理解しているではないか」
「……それでも引き受けていただけたのはどうしてなのかな、と」

 私がそこまで言った時、ようやくバラダスさんの手が止まった。相手がゆっくりとこちらを振り向き、私は固唾を飲んで続く言葉を待つ。

「そこまで認識していながら、理由だけは未だにわからんのか」

 呆れているのか、面白がっているのか。どちらとも取れそうな表情をしながらバラダスさんは一歩、また一歩とその歩みを進め、私のすぐ目の前で足を止めた。

「私がなぜ評議員を引き受けたかだと? その理由など一つに決まっている」
「一つ……ですか?」

 はっきり断言されればされるほどますますわからなくなっていく。高位の魔術師とは言えグニシスを治めているわけではないバラダスさんに、マスター・ウィザードの権力や威光は果たしてメリットになり得るのだろうか? 研究に没頭したいがために政争から距離を置いたという噂が真実なら、評議員になるなんて真逆でしかないような気がするのだけれど。

「何も思いつかんという顔だな」

 開いた本でも読むように私の内心を言い当てた老魔術師は、時間切れだとでも言わんばかりに軽く頭を振ってこう言った。

「いざという時、お前を助けてやれる地位にいた方が都合が良かろう。お前さえ居らなんだら、わざわざこんな厄介事など抱え込まんわ」
「ぇ……えっ⁉︎」

 その答えは完全に予想外で、私は動揺も露わにバラダスさんを見つめ返すことしかできない。
 素っ気なく扱われた初対面の時こそ苦手に感じたこともあったけれど、駆け出しで下っ端の私には仕事をくれるというだけでもありがたかった。頼まれた本を一冊ずつ見つけてはここまで届けに来ているうちに、相手の態度がだんだんと柔らかくなってきたことが嬉しかった。そんな風に何度も顔を合わせて言葉を交わしていくにつれ、一人の人としてどうしようもなく惹かれていくまでに至った。
 だからこそマスター・アリョンからバラダスさんを評議会に引き込むようにと言われた時、こんなことを頼めば絶対に断られると疑いもしなかった。せっかく近しくなれた関係を台無しにしてしまうとわかっていたから、テル・ヴォスからグニシスに向かう途中はひどく気分が重かった。どうしても面と向かって評議員になってくれと言うことはできなくて、床に敷かれた絨毯の柄を見つめながら呟くことしかできなかった。
 ──なのに、まさか。

「で……でもあの時はまだ、私のことなんて何とも思っていなかったんじゃ」
「そうであればこの私がその場ですぐに引き受けたりなどすると思うか」
「なっ……」

 確かにあの時バラダスさんはすぐに承諾の返事をくれた。条件を出されたり拒まれるどころか叩き出されるかもしれないと覚悟していた私は、何と言われたのかすぐには理解できずに呆れられてしまったものだ。
 けれどその理由が他ならぬ私だなんて考えたことは本当に一度もなかった。バラダスさんが私のことを好きになってくれたのは、相手の様子からしてもっと最近のことだとしか思えなかったからだ。
 私だけがずっとバラダスさんを好きで、相手はこちらをただの便利な使い走りくらいにしか認識してくれていないと思っていた。何度想いを打ち明けても長らく真面目に取り合ってはもらえなかったし、若気の至りだの考え直せだのとあしらわれた回数は数え切れない。
 でも私がそうした直接的な行動に出たのは、全てバラダスさんが評議員になった後のことだったはずだ。つれない返事をされて落ち込みながらサドリス・モラへ戻ってくる度に、議事堂で隣に立つエナールさんが心の底から羨ましかった。そしてそこにエナールさんが既にいたという事実が、すなわちバラダスさんがマスター・ウィザードになってからの出来事だということを示す。
 ……ということは。

「あの……バラダスさん、もう一つ質問が」
「何だ。まだ何かあるのか、アルマ」
「あなたは一体いつから……その……っ、私のことを?」

 尋ねる前から真実なんて教えてもらえないことは承知している。それでもそう問いかけずにはいられない。これまでの全ての前提を覆すその可能性に気づいてから、私の心臓の鼓動はどんどん早まり続けていくばかりだ。

「ここまで聞いた上でまだそんなことを尋ねるとは」
「ううっ……」
「だがそんなどうしようもなく愚かな小娘に、一ついいことを教えてやろう」
「いいこと?」

 苦笑しながらそう言ったバラダスさんの赤い目が細められ、おもむろに伸ばされた指先が私の頬を柔らかく掠める。そのまなざしにも、触れ方にも、出会った頃にはなかった静かな情熱が確かに宿る。

「その問いに対する答えは、お前の想定よりも時間軸では幾分か前の出来事だとだけ言っておく」
「!」

 〝じゃあどうしてもっと早く折れてくれなかったんですか〟なんて、恨みがましい疑問が浮かんでこないというわけではない。けれどそんな日々を過ごしていた時でさえ、どこかの時点でこの人は私を今と同じ瞳で見つめてくれていた。今の言葉はつまりそういう意味だ。私が考えていたよりももう少しだけ長く、バラダスさんは私のことを好きでいてくれている。その孤立主義を百年か二百年程度なら曲げてもいいと思ってくれるほどに、深く。

「……嬉しそうな顔をしおって」
「はい。嬉しいです」
「この程度でか。単純な」

 そう言いながらも相手の腕は優しく私の背へと回り、そうすることが当然であるかのように抱きしめてくれる。私は心が震えるほどの幸福を改めて噛み締めながら、これまでに流したたくさんの涙が報われたように感じていた──二千年生きるウィザードの言うところの〝幾分か前〟という時点が、私の想定よりもずっと前だったことはまだ知る由もなかったけれど。