いい加減に諦めろ

「……今お前は何と言った」
「ドワーフに関する研究を辞めていただけませんかと言いました」

 しばらく本土に向かうため留守にすると言っていたその娘が戻ってくるなり、ひどく真剣な顔でこう言った時にはさすがに正気を疑った。数秒の沈黙の後に私は狂人に背を向けることを決め、中断していた研究を再開させんと手にした羊皮紙に視線を落とす。

「そこの聖堂の何とか言う治癒師はそれなりに腕がいいそうだ。いつだったかお前も頭のおかしなレッドガードを連れて行ったことがあったのではなかったか? お前の場合もはや手遅れとは言え、治癒師に見せるくらいの手間はかけても構わんだろう」
「バラダスさん、私は正気です!」

 真面目に取り合うつもりなどない私の態度に憤慨したのか、アルマはそう声を上げながら私の肩に手をかけ再び向き直らせる。

「ならば尚更性質たちが悪い。アルマ、今までお前とはそれなりに親密な関係を築いていたつもりだが、かくも愚かな要求が私に通ると少しでも考えていたのか?」
「……っ! でも、ドワーフの研究は危険です……!」

 凄みを利かせてやれば一瞬その顔に緊張が走るものの、それでも食い下がってくるのはこの娘がよそ者だからに他ならない。この地に生まれたダンマーならば、テルヴァンニの高位の魔術師の機嫌を自ら損なおうとすることなど、自殺行為に等しい愚行だと理解しているはずだからだ。

「危険であるからこそ研究することに価値があるのだろうが。今更何を言っているのだ? 本土のおかしな連中にあれやこれやと馬鹿げた話を吹き込まれでもしたか」
「ドワーフの遺物に関わりすぎると、知能に異常をきたすことが少なくないと聞きました。実際そういう人にモーンホールドで襲われたからこそ、私はバラダスさんのことが……あなたのことが心配なんです!」
「……!」

 アルマの身が危険に晒されたことに、我知らず眉間に皺が寄る。モーンホールドで気の狂った女が起こした事件の噂は耳に入っていたが、この娘の弁を聞く限りはそれにドゥーマーの遺物が関わっていたということなのだろう。
 意志弱き者を支配しているようにさえ見える遺物が存在することは事実だ。そもそも強い魔力を宿したアーティファクトと呼ばれる類のものは、それがドゥーマー由来であろうとなかろうと皆どれも似たような力を秘めている。魔術的な防護の心得もない者が不用意に触れでもすれば、たちまち狂気に蝕まれることも古今東西枚挙に暇がない。
 とは言え遺物の正体もわからぬであろう有象無象の素人と、私のような専門家を同列に語られるは気分の良いものではなかった。それも私の力量を理解していて然るべきと思われる、情人たる娘の口から発せられたものだとするならば。

「お前のような小娘に心配されるとは我が名も地に落ちたものだな。私が一体何百年この研究を続けていると思っている」
「今までは大丈夫だったかもしれません。でもこれからもそうだとは誰にも言えないでしょう」
「そんな気概で何かを学ぶことなどできると思うてか? いい加減に諦めろ、これ以上くだらん説得など聞かせるな」

 未だ私の肩に置かれたままの手を軽く振り払ってやれば、アルマはその顔を悲しげに歪め、両の瞳にうっすらと涙を滲ませる。
 曲がりなりにも我が情人の肩書きを冠する相手から、そんな表情をされることに胸中が波立たないわけではない。さりとて我が研究を手放すつもりなど元より微塵もあるはずがない。この無意味で愚かな対立に、敗北するは必ずこの娘だ。
 しかしそんな結末を予想していながらも私に敢えてこんな進言を見舞おうとする、その蛮勇の理由が他ならぬ私のためを想ってだと言うのならば、敗者の味わうべき苦さに多少の手心を加えてやる気にもなろう。つまるところ私はアルマに対し、どうにも手緩く接してしまうことは認めざるを得ない。

「第一、おかしくなったところで何が悪いと言うのだ」
「……はい?」
「お前の理論に則るならば、そもそも私とて既に正気を失っているかもしれんのだぞ」
「えっ⁉︎ で、でも……そんなわけ」
「さもなくばなぜお前のように奇妙な娘を側近くに置こうと思う」
「!」

 アルマはその言葉を聞くなり、ぎょっと目を見開いて私を見つめた。そんなことなどこれまで全く考えたことはなかったと、誰の目にもはっきりとわかるほど内心が顔に現れている。

「この研究から手を引けば、次第にまともな感覚を取り戻すこともあるかもしれん。小生意気な異種族の娘と親しく交わることなどあるはずもない、由緒ある魔術の大家に属する厳格なダンマーのウィザードとしてな」
「…………」
「アルマ、それでもお前は望むのか? 私がドゥーマー研究を辞めることを?」

 こうして自ら問いかけておきながら、相手の答えなど無論承知している。私自身がそうであるように、アルマもまた骨の髄までテルヴァンニの者なのだ。実に利己的で、狡猾極まりない。一度手に入れたものを失うことなど、決して考えられぬ。ましてや、それが長きにわたって望み続けたものであるならば。

「……あなたは意地悪ですね……」

 精一杯の反抗とでも言うべきか、しばらく口を噤んでいた娘は不明瞭極まる声でそう呟いた。声高に繰り返していた主張でさえ、甚大な不利益を被るとわかれば即座に撤回してみせる。何とも現金なものだと呆れはするが、同時にその決まり悪そうな様さえ不思議と愛しく思えるものだ。

「私の力を見誤るな。お前が想いを寄せた相手は、その程度の愚鈍な魔術師ではない」
「はい」

 その背を引き寄せた私の腕に逆らわず、アルマは素直にこちらに身を委ねる。頬をすり寄せる娘に応えるように、私は相手の髪を幾度も指で梳く。
 以前の私であれば間違いなくあり得ぬと断言できるこのような関係に、正気でないとの形容は些か適当と思われる気もするが。だがこれが正常な判断ではないとするならば、世の中の“普通”なる概念を示す物差しなど私には何の意味もない。
 アルマが私を失うことなど考えられもしないように、私もまたこの娘と離れることなどもはやできはしないのだから。

「その意味ではお前の方が遥かに危険とも言えるか……」
「何か?」
「いや、気にするな」

 ドゥーマーの遺物でも干渉叶わぬ我が精神を狂わせた危険物を、再びこの腕で抱きしめながら私は喉の奥で小さく笑った。